アナザーストーリー

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アナザーストーリー

「房枝、いるのかい?」  その男性は、アパートの2階にある1室に入りながら、口を開いた。 「来てくれたの?」  真行寺房枝はその男性を部屋の中に招き入れた。 「由紀子ちゃんは?」 「由紀子は友だちの所へ遊びに出かけているわ。」 「話があるって言っていたけど、なんだい?」 「言うべきか迷っていたんだけど、直接会って、言った方がいいと思って。  私の別れた夫、宇田川が癌で亡くなったの。すい臓がんだったみたい。」 「……そうか。亡くなったと聞くと、複雑な心境だな。  責任を感じるよ。」 「伊月さんが責任を感じることはないわ。私と宇田川の問題だから。」 「うん?まあ、そうかもしれないけど。  調子はどう?精神的に。」 「こうしてあなたと話していると調子がいいんだけど、独りでいるとダメね。  うつが続くことが多いの。」 「そうか。なかなか良くならないな。」 「ごめんね。」 「いいよ、気にしてない。  それで、と言ったらなんだけど、俺も話したいことがあって……」 「なぁに?話って?」  房枝は笑顔になった。  伊月は話すことを一瞬躊躇した。 「……うん、俺たち、そろそろ潮時じゃないか?  房枝には由紀子ちゃんがいるし、おれも何とかして役者として身を立てないと。もう歳も歳だし。  この辺で清算した方がお互いのためだと思う。  お互い別々の道を歩もう。」  伊月から一方的な別れ話を切り出された房枝は、顔からスーッと血の気が引いて、唇を小刻みに震わせた。 「ちょっと、突然、何言っているの?  別れたいって言っているの?  私が邪魔になったの?」 「このままの関係でいいって房枝は思っているけど、由紀子ちゃんも大きくなってきたから、そのうちに気づくよ。」 「じゃあ、一緒になりましょ。由紀子のためにも。」 「だから、俺は役者に打ち込みたいんだよっ!  ……分かってくれよ、なあ房枝?」 「全然分からない。  私がいたって、打ち込めばいいでしょ?役者でもなんでも。」 「いや、房枝がそばにいると、色々考えたりして、雑念が捨て切れないんだ。  房枝だって、俺みたいな売れない役者といるよりも、別れた方が由紀子ちゃんのためにも絶対いいって……」  伊月が話し終わらないうちに、房枝はキッチンへ消えた。 「まだ話は終わっていないのに、どこへ行くんだ?  何をしているんだ?」  房枝は、伊月の問い掛けには答えずに、無言のままキッチンから戻ってきた。  その手には包丁が握られていた。 「おいっ!なんだよ、それ?  あ、危ないからテーブルに置けよっ!」 「なによ、馬鹿にしないでっ!  勝手なことばかり言わないでよっ!  あなたがそうしたいんなら、私にも考えがあるわっ!」  房枝はそう叫ぶと、包丁を振り上げて伊月の方に詰め寄ってきた。 「うわっ!」  伊月は包丁を振り上げた房枝の腕を必死に押さえた。  伊月に掴まれた腕を振り払おうとする房枝と、房枝の腕を離すまいとする伊月は、もみ合ったまま、フローリングの床にもんどり打って倒れ込んだ。 「ゔっ!」  房枝は普段の声とはまるで違う、低くて太い声を漏らした。  その声に驚いた伊月は、我に返って、房枝の身体を確認した。  伊月は無我夢中で房枝から取り上げた包丁を握りしめていて、その包丁は房枝の腹部に深く突き刺さっていた。 「えっ!?」  反射的に包丁から手を離した伊月は、慌てて房枝を抱き起こした。 「大丈夫か?  房枝、しっかりしろっ!!」  伊月は房枝を揺り起こそうとしたが、房枝は全身の力が抜けていて、すでに息絶えていた。 「そ、そんな……どうしよう……落ち着け、落ち着け。  俺はここに来ていない。  房枝は運悪く強盗に襲われたんだ……」  伊月はそう自分に言い聞かせると、房枝の財布から数枚の紙幣を抜き取り、部屋の中を荒らして、強盗が侵入したように見せかけた。  そして、房枝の身体からゆっくりと包丁を引き抜いて、台所の水道の水で付いた血を洗い流すと、上着の内側に隠し持った。  包丁が引き抜かれた傷口からは鮮血が流れ出してきた。  その鮮血を目にして怖くなってきた伊月は、目立たないように房枝の部屋から外へ出たが、運悪く、外階段で由紀子にぶつかってしまった。  動揺した伊月は、由紀子の方を振り返ることもなくアパートから逃げ去ると、人目に付かない路地裏で一息ついた。 「大変なことになってしまった。  これからどうしたらいいんだ?  とにかく、目立たないところへ逃げないと……」  それ以降、伊月は姿を隠した。  18年後  伊月は18年ぶりに日本の地に降り立った。  ついに、日本に戻ってきたか。  あの頃の役者の夢も何もかも全部吹き飛んでしまって、こんな人生を送るとは夢にも思わなかった……  でも、俺も生きて行かなきゃならないから。  由紀子の居場所は分かっているし。  しかし、驚いたな。結構人気のある占い師になっているなんて。  そういえば、房枝も占いが出来たから、その血筋なのかな。  人気占い師の由紀子には、それなりに資産があるよな。  マレーシアの事業で出した損失を穴埋めしないとならないから、是が非でも由紀子から資金援助を取り付けないと……  危険を冒してまで日本に帰ってきたんだ。  元々、演技には自信があるし、若いころの見た目は宇田川と似てなくもない。  何とか、なりすませると思う。  一世一代の大舞台だ。失敗は許されない。シナリオも大丈夫。  さてさて、宇田川道隆が由紀子に会いに行くよ。予約の時間に。
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