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あれから翼たちは話し合って結局受験が終わる二月下旬にしようということになった。
中学を卒業してから行くところがなくては困ると、短期間ではあるがさすがに翼も必死に机にかじりついて勉強した。
試験も終わったきょう、ついにデート当日となった翼はそわそわして落ち着けなかった。待ち合わせの時間二時間前に駅に着いてしまい、小さな駅舎の階段を往復したり、駅周辺を歩いてみたりしたが一向に時間は進まないし、緊張もほぐれない。
諦めて駅の待合室の椅子に腰を下ろした翼は財布から二枚の映画の券を取り出した。今日見るのは有希が以前から見たがっていたという映画だ。二時間弱じっとしていること故映画を疎遠していた翼にとってこの映画がどんな内容なのかさっぱりわからなかったり、毎月の小遣いの千五百円では足りずに貯金を切り崩したりと、そんなことはどうでもよかった。いま、手中にある二枚の券が有希との共有する大切な券なのだ。
ふと時計を見上げるといつの間にか約束の時間を十分過ぎていた。翼は外見だけは狼狽えずにゆったりと足を組みなおしてみる。やっぱり翼とデートが嫌で来ないのかとよぎったが、女性は準備に時間がかかるものと何かの雑誌で読んだ。実際、翼の母も出かける時間になっても一向に家から出てこず、父と二人してくるまで待つことが多い。ここは我慢だ、と自分に言い聞かせて翼はじっと有希が来るのを待つ。
しかし、いつになっても有希の姿は現れず、時計の針が何周も回る。次第に不安になり、募り、そして夕日が沈んで待合室の明かりが煌々としたとき、ようやくあきらめがついた。重い腰を上げて翼は二枚の券をそのままゴミ箱へ捨てようとした。しかし、すんでのところで券を握り締めて、その拳ごとポケットに突っ込んだ。
有希は結局現れなかった。それがすべてだ。自分だけ舞い上がっていたのが馬鹿らしくて恥ずかしい。火照る体を冷やすように寒風が体に打ち付ける。
週が明けた月曜日。休み時間に有希が翼の所へ来る気配を感じたので、翼は咄嗟に席を離れて友達と肩を組んで教室を出る。それから何度も有希が近づいてきたが、そのたびに翼はわざと離れる様にしていた。今更弁解されたって無様なだけだ。当時の翼はまだ青臭くて、人のことを考える力が欠けていた。それに気づいたのは思いのほか早かった。
卒業が近づき、登校日数が片手で数えられるようになったある朝、翼はいつもより早く教室にいた。あれからようやく冷静になって自分の小ささを思い知らされた。それよりも有希を疎遠することが苦しかった。翼は今でも有希のことを想っていた。だから格好悪くても正直に謝りたいと昨日のうちに有希の机の引き出しにメモを残した。きっと有希は来てくれるはず。そしたらきちんと謝って、もう一度デートに誘おう。
しかしその日、有希は登校してこなかった。いつも通りに授業が始まっても翼は空席を眺めて授業の内容はおろか、その日は終日意識が別のところに飛んでいた。
気づけば放課後で教室にはほとんど人が残っていなかった。翼はおもむろに有希の席に行って引き出しの中に手を伸ばした。すると、昨日入れたはずのメモが残ったままだった。どういうことだろうと首をかしげていると担任の先生が教室に入ってきた。
「どうしたんだ。もう外は暗いから早く帰りなさい」
返事をしてから翼は先生になぜ有希が来ていないのかを尋ねた。すると先生は少なからず驚いた顔で、それから小さくため息を吐いた。
「菊池は家の都合で早めに卒業したって、今朝の挨拶で言ったはずだろう。そういえばずっと上の空だったもんな」
先生の言葉がまるで知らない言語のように聞こえる。耳には届くが理解はできない。何を言っているのかさっぱりわからなかった。
放心する翼の肩に手を優しく置いてから先生は教室を出た。翼は自分の愚かさにようやく気付いた。
照明がゆっくりとついて部屋が明るくなる。
気づけば映画は終わっていた。内容は全く覚えていなかった。
苦くて恥ずかしい思い出は時が経つにつれて深いなつかしさに染みていた。卒業後の有希がどこにいて何をしているのかはわからない。でも、それでいいと思う。きっと有希は今きちんと生きている。わざわざその人生に割り込む必要もない。そもそも有希からすれば田辺翼を覚えていないだろう。
それでいい。
ただ、有希が幸せな人生を送っていること厚かましいが心より願っている。今も、そしてこれからも。
老夫婦の後を歩きながら、翼は当時買った二枚の券を空になったポップコーンのカップに入れた。そして、出口で待っていた店員に渡して映画館を後にする。
映画館が営業の最後なのか、モール内はしんとしていた。
翼は軽い足取りで出口に向かって歩き出した。
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