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「明日は特別な一日にしようね」
昼休み、八谷くんから初めてのデートに誘われて舞い上がってしまった私から、そんな言葉が滑り出た。
抽象的な約束にほんの少し首をひねった八谷くんだけど、やがてフッと唇の両端を上げて、「そうだな」と口を動かした。
八谷くんの口。
明日のために物質的にも精神的にも準備をしないといけなかったから、今日は八谷くんを待たずに先に帰ることにした。
家に帰って洗面所で手を洗う。洗面台の鏡に映る私と目が合って、そこに重ねたさっきの自分に心のなかで問いかけた。
特別な一日って、なにを期待して言ってるの?
今ごろ八谷くんは部活に全力を注いで頑張ってるっていうのに、私はなにを妄想してる?
鏡に近づいて、少しだけ口角を上げて、「そうだな」と言ってみた。
自分の口の動きになんの感動もなくて、そのかわり小鼻の毛穴が気になった。
爪で角栓を押し出したくなる衝動を我慢する。そんなことしたら赤くなってさらに目立っちゃうから、絶対ダメ。
そんな顔を八谷くんに――
いや、ちがうちがう。そんなつもりじゃない。
だって、まだ付き合って一ヶ月。
八谷くんの野球部が放課後も休日もいつも忙しいから、一緒に帰ったことも数えるほどだった。
まだそんな段階じゃない。
普段はほとんど聞き役の八谷くんの、声やその口の動きをずっと眺めてられるだけで、充分特別な一日だ。
それでいい。
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