私の娘がイルカに乗って

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     そろそろ夏も終わるという頃。  私の隣にちょこんと腰掛けて、娘が絵日記を描いていた。幼稚園の夏休みの宿題だ。  もちろん、まだ文章を書くのは難しい年齢なので、一般的な絵日記とは大きく違う。絵の下に日記として文章を書き加えるのは無しで、絵だけを日記風に並べる形式だった。  理想としては毎日一枚、夏休みの日数と同じ数のお絵かきを重ねる形になるが……。イラストだけで示せるほど印象的な出来事なんて、毎日は発生しないものだ。  幼稚園からは「一週間に一枚程度でいいので、お子さんにお絵かきさせてください」と指示されていた。要するに「お子さんの思い出になるよう、一週間に一回くらいは遊びに連れて行ってあげてください」という意味だろう。  しかし私の場合、この「一週間に一回くらい」というのが難しかった。子供と一緒に毎週末どこかへ行ければ良いのだが、男手ひとつで育てていると、なかなか時間の余裕が作れないのだ。  在宅仕事なので娘をよそに預ける必要はないけれど、外出の機会が少ないせいで退屈させてしまうし、絵日記に描ける出来事も少なくなってしまう。  そんな肩身の狭さを感じながら、改めて娘の絵日記に注目してみると……。  お星様がたくさん描かれている。どうやら夜空のイラストらしい。下の方にある黒っぽいモコモコは、おそらく雲に違いない。  真ん中には大きなイルカと、それに乗った少女の姿。髪型や服装などから判断して、少女は娘自身のようだった。左手をイルカに添えて、右手は一際明るい星を指差していた。  幻想的で素晴らしい一枚だが、現実にはありえない情景であり、絵日記には相応しくない。そう思いながらも顔には出さず、私はニコニコしながら尋ねてみた。 「ゆかちゃん、これは何の絵かな……?」 「イルカに乗ったの! イルカに乗って、ゆか、ママに会いに行ったの!」  娘の『ママ』という言葉に、私はチクリと胸の痛みを感じる。それで聞き逃しそうになったが、続く娘の言葉こそが、絵日記の正体だった。 「あのね、今朝見た夢なの!」  なるほど、夢の内容だったのか。ならば「現実にはありえない情景」でも問題ないはず。  そう考えることで、私が自分を納得させていると……。 「ほら、もうすぐママの誕生日でしょう? でも、ママはお空の星になっちゃったでしょう? だから、ゆか、お誕生日のプレゼント持って行ったの!」  確かにイラストの中の少女は、右手に何か持っているようにも見えた。  しかし、それ以上は娘の絵を見続けられなかった。涙腺が緩んできた自覚があり、このまま下を向いていたら涙がこぼれそうだったからだ。  学生時代に知り合って、友人から恋人に代わり、卒業後は私の妻になり、ゆかという娘を産んで、母親になった由美子。  彼女との思い出が――彼女が病気で亡くなるまでの日々も含めて――、走馬灯のように私の頭を駆け巡る。  そんな由美子の誕生日を、娘に言われるまで忘れていたなんて、なんとも情けない話ではないか!  毎年というほど頻繁ではなかったけれど、由美子の誕生日に何度か、ゆかと三人で水族館に出掛けたことがある。妻も娘も大好きな場所であり、妻が娘にイルカのグッズを買い与えるようになったのも、あの水族館が始まりだった。  この絵日記に描かれたような大きなイルカは、まだゆかは持っていないが……。 「じゃあ、今度のママの誕生日。パパと二人だけになっちゃうけど、一緒にいつもの水族館へ行こうか?」 「うん!」  娘が満面の笑みを浮かべる。その様子を見守りながら、私は心の中で思うのだった。  今度あの水族館へ行ったら、ぬいぐるみでも抱き枕でも何でもいいから、一番大きなイルカを買ってあげよう、と。 (「私の娘がイルカに乗って」完)    
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