さくら花吹雪~冷ややかなぬくもり~

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 絹代が目覚めた時には手術は終わっていた。自分の意思などお構いなしに病院に連れてこられ、知らない間に堕胎させられたのだ。  生まれつき耳の聞こえない絹代は両親に外から隠すように育てられた。貧しい家庭で学校にも行かせてもらえない。それでも少し大きくなると親の留守中に家の周りを一人で歩くようになる。不自由な生活の中で青い空と季節ごとに咲く草花や木々が癒しだった。  そんな存在を偶然知ったのは近くに住む総一郎だ。江戸時代から続く名家の跡取りで、周りに内緒で絹代に読み書きを教えた。声を出す訓練をすれば話せるようになることを知ると、毎日のように練習をしてくれた。十五の春、初めて声で話した言葉は今でも忘れない。 「総一郎さん、大好き」  自分のような者が大それたことを言ってしまったと後悔する絹代に、彼は「僕もだよ」と微笑み気持ちが通じた。  やがて将来を誓い結ばれたが、地主である総一郎の親は結婚を許さない。お腹に子供がいることがわかって二人は駆け落ちを決めた。だが待ち合わせの場所に彼は現れず、代わりに来た総一郎宅の主治医に注射を打たれた絹代は意識を失った……。  絹代には三歳下の妹の千代がいる。地味な着物ばかり着せられた姉と違い、周りから貰ったきれいな洋服を着ていた。その千代も総一郎へ想いを寄せていたが、偶然二人の駆け落ちの話を立ち聞いて嫉妬から親達の耳に入れたのだ。蔵に閉じ込められた総一郎は身動きがとれなかった。  病室で気がついた時には全てが終わっていた。 「ご……えんなさい……」  こもった声でさっきまでお腹にいた赤ん坊を守れなかったことを彼にも子供にも詫びた。だがその声は自身には聞こえない。あまりに悲しむ絹代が看護婦から教えてもらったのは、まだ生まれ出るには早すぎた小さな命が女の子だと言うことだけ。  窓の外の満開の桜が、春の嵐に散り急ぐ日だった……。  病院から家には帰らせてもらえず、絹代は遠くの親戚に引き取られた。会えないまま数年後に総一郎が千代と結婚したことを知る。それが絹代と子供を守るためだと親に言い含められ、嘘とも知らずに約束をした総一郎の苦渋の決断だと知ったのは半世紀もあとのこと……。  預け先の家で生け花を教わった絹代は師範の免除を取って教室を開いていた。耳が聞こえなくても唇を読み、声を出して教えることは出来る。随分たってから手話も覚えた。  最近になって隣の市に千代が息子夫婦と孫娘と暮らしていることを知った。総一郎もとうに鬼籍に入り今さら恨みも言っても仕方がない、二人きりの姉妹なのだからと時おり連絡をとっている。  ここのところ頭痛が治らないので近くの病院に行くと大学病院を紹介され、手術の出来ないところに腫瘍が出来ていると余命を宣告された。  自分の人生に怒っていいのか、悲しんでいいのか……。時刻表を見れば、次のバスまで時間がある。近くに服屋があるようだ。 (ちょっと寄ってみようか、きれいなものを見たら心が落ち着くかもしれない)  そこは有名なベビー服の店だが、絹代は初めて入った。自分の子供の頃とは違う夢のような世界だ。優しい色合いのベビー服が並び、触ってみると驚くほど柔らかい。店の端から端をゆっくりと見て歩く。バスの時間が来たことは知っていたが、家で誰が待つわけでもない。もう一本遅らせてもいいだろう。  小さな産着のセットを手に取ると、生んでやれなかった子供に着せたかったと心が疼いた。一日たりとも忘れたこともないその子に着せる術もないのだが……。  それでも一度手にしたそれを戻すことは出来ずにレジへと向かった。それまで何度か店員が話しかけていたのだが、聞こえない絹代は彼女たちには無視していたように映っていたに違いない。  家に帰って服を取り出し、赤ん坊を抱くようにして服を広げて腕に乗せた。 (子供がいないのに赤ちゃんの服を買うなんて……)  自分のしたことがおかしくて、絹代は笑っているのに気がつくと涙がはらはらとこぼれていた。  三ヶ月に一度の検査の度にその店に寄るようになった。なんとなく目についた物を買う。通いだして一年、新しい店員が絹代に話しかけてくる。千代から娘と喧嘩したと長々とメールが入りイライラしていたせいで「決まったら声をかけるから」と嫌な言い方をしてしまった。会計の際もその店員が何か言っている。子供のいないことを見抜かれたようで、つい声を荒らげてしまった。  店長だという女性がサイズと季節のことを若い店員が気にしたのだと謝ってきた。店長は絹代の耳のことにも気づいていて手話でも謝罪してきたが、絹代はそういう特別扱いは嫌だと言った。  それでも三カ月して服を見たさに行くと、商品の横にメモが置かれている。服のサイズと子供の年齢の目安、洗濯の取り扱い情報。『美咲のおすすめ』と書かれ、レジに行くと森下という店員が絹代のために書いたものだと察する。  つい「きれいな名前」と言ってしまい、逆に子供の名前を聞かれて逃げるように店を出てしまった。彼女は気にしているだろう。だが自分にその資格はないと名前も付けずにきた。  目を閉じて浮かぶのはあの日の桜吹雪。  定期の通院の帰りに店に寄り服を買う。今日は美咲に子供の名前を「さくら」と言ってみた。「可愛い名前ですね」と言ってくれて嬉しかった。  病状が思わしくなく通院が一カ月に一度になり、千代が何かあったら大変だからと言うので入院を決めた。恐らくそう長くはないだろう。 (彼女と会えなくなるのは寂しいけれど……)  入院中に母親に言われたと千代の孫が時々来る。小遣いをやり昔話をするが、いつもスマホの画面ばかり見ていて聞いているかどうかわからない。絹代の相手が自分の祖父だとも気づいていないようだ。  ただ……なぜだかこの子に話していれば、いつかあの親切な店員さんに自分が子供服を買って幸せだったことが伝わる気がするのだ。 (死ぬことは怖くない、総一郎さんとさくらに会えるのだから……)  目を閉じて浮かぶのはあの日のさくら吹雪。  そして、絹代が再び目を開けることはなかった。
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