彼女の特別な一日

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「お母さん、行ってきます」  舞香はいつものように仏壇の母の写真に挨拶をして、パンをひとかじりし家を出た。  父の姿はない。  どうせ女のところにでも行っているんだろう。  外に出ると雪がちらついていた。  かじかむように寒い。  ダッフルコートのボタンをしっかりとめ、駅へ向かう。  その間にも、心の中で暗記した数式や歴史上の人物の名をぶつぶつ呟く。  ……大丈夫だ。  やるべきことはやった。  できる限りの準備はしてきた。 「そうよ。舞香。あなたはよくやってきたわ。私はずっと見てきた。あなたなら大丈夫」  彼女は画面の中の舞香に話しかける。  もう熱狂的なお茶の間のファンだ。  今日は大学入学共通テストの日。  舞香はこの日の為に、日夜勉強に励んできた。  母の死という不幸を乗り越え、悲しみを胸に秘め、それでも耐え抜いた。  母が応援してくれた、弁護士になりたいという夢を叶える為だ。  母と二人三脚で迎えたこの日。  もう温かなその姿はないけれど、きっと空の向こうで見てくれていると舞香は信じていた。  駅に着くと、人でごった返していて舞香は違和感を覚えた。  試験日と言えど、ここまで混雑するはずがない。 『人身事故の為、遅延がでています』 「そんな……」  舞香は動揺を隠せなかった。  試験では遅延証明書を提出すれば遅刻も認められるはず。  だが不慮のトラブルで緊張は一気に増し、本来の力が発揮できないかもしれない。  彼女は画面に向かって叫んだ。 「舞香、鞄の内ポケットを見なさい!」  彼女は知っていた。  母が舞香の為にお守りを手作りし、こっそり鞄に入れていたことを。  母は舞香に、「不安になったら内ポケットにあるキャンディを舐めるといい」と普段から助言していたことも。  舞香はハッとした表情になり、鞄の内ポケットのファスナーを開けた。 「お母さん……」  黄色いフェルトに赤の刺しゅう糸で縫い付けられたお守りを取り出し、涙ぐむ。  口にキャンディを放り込むと、舞香の表情は和らいだ。  彼女も画面を見つめホッと胸を撫で下ろす。  なんとか次の電車は到着し、試験には間に合いそうだ。  目的地の駅まで到着すると、舞香は電車を降りて駆けだした。 「頑張れ!舞香!」  彼女の応援もヒートアップする。  舞香は余程焦っているのか、霜で滑る歩道の上で転んでしまった。 「舞香!」 「いててて……」  右膝からはうっすらと血が滲んでいた。 「落ち着いて舞香、猫のポーチの中に絆創膏入ってる」  彼女の推理通り、舞香が取り出した猫のポーチにはボタニカル柄の絆創膏が入っていた。 「お母さん、可愛いやつ入れといてくれたんだ」  舞香は絆創膏を涙目で見つめると、すぐに膝に貼りまた走り出した。  
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