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電車は見知らぬ無人駅に止まる。窓の外には、雨を浴びたエノコログサが一帯に茂っていた。
「サツキはどうなの?まさか、その茶髪で面接行ってるわけ?」
フミは、「あいつ」相手に話すように俺が話しかけることを喜ぶ。「フミ」ではなく「サツキ」と呼ばないと、問いかけに答えてはくれない。
「…アホか。ちゃんと黒く染めに行ってるわ。今は面接ないってだけに決まってるやろ」
「あいつ」が生きていたら、たぶん黒く染めるのだと思う。そしてすぐにまたブリーチして。それをフミが一番わかっているから、フミも同じことをする。
「フミ、あ、いや、サツキ。さっき言ってたことって」
涼太は高校卒業してどうするん?何になりたいん?アタシはさ…何にもなりたくないわ。あはは。これ、おばあちゃんに言わんといてよ?フミもよろしく頼むで。うちのおばあちゃん、東大に行けってうるさいんよ。
「…あー、前に三人で話したやろ?誰が一番早く死ぬかって」
フミは2秒の空白をもって、自身の言葉が嘘であることを証明した。フミが決心したときに俺が答えてやれなかったせいだ。追及することはしなかった。「あいつ」ならフミにそうすると思ったからだ。俺も「あいつ」に浸食されていた。
「結局、フミが一番最初に死んじゃったよなあって話。大したことないやろ?」
涼太は、そこそこ稼いで、可愛い子と付き合って、幸せに生きてそうやなー。フミはお金がっぽり稼いでそうやわ。医者とか、弁護士とかになってさ。
電車はまた止まった。
「…涼太、カトウアツシって覚えてる?よく、紅白の司会とかやってたやろ?」
突然死ぬのは嫌やな、アタシ。最後の晩餐、ちゃんと味わってから死にたいしな。遺言とかって17歳でも有効なんやっけ?今のうちに、遺言書いとかんと。涼太とフミにアタシの財産、半分こにしてもらおうと思ってんよ。…馬鹿にせんでよ。アタシ、お年玉貯める派やで?
「あー、わかるような、わからないような」
なぜフミがそんな奴を話題にしたのか、理解する努力はほかの所に使おうと思った。フミが話せば、沈黙が埋まる。それだけで十分だった。
「今日で、その人が死んでから1年なんやって。…やっぱ、忘れとるよな。アタシもニュース見て思い出したし」
カトウアツシが重要なわけではなさそうだった。フミは中指と親指をすり合わせて、しばらく考え込んでいた。「あいつ」が数学の難題を解くときの癖だった。
「つまり、人の死ってさ、曖昧だなーって話なんやけど。そりゃあ生物学的には生命維持機能がなくなったら、死ってことやろうけどさ。アタシは、記憶の中で死ぬ、とか、役目がなくなったら死ぬってこともあると思うんよ」
「だからその…カトウアツシは生物学的にも、記憶の中でも死んでるってことを言いたいわけ?」
「ちょっと違うんやけど…アタシが言いたいのは、たとえ生物学的に死んでも、まだ生きられる可能性はあるってことを言いたいんよ」
あの日の「あいつ」と同じことをフミは言った。
アタシが息をしなくなったとして、それが本当に死なんかなってたまに思うんよ。死んだ人は記憶の中で永遠に生き続けるってよく言うけどさ、それは違くて。だっていつか、死んだアタシのことを忘れる一瞬、それは数秒とか数分かもしれないけど、アタシの存在が涼太やフミの中から消えるときがくるやろ?そしたら記憶の中のアタシも生きてないわけで。どこまでが生で、どこからが死なんかわからんくなって、夜眠れないこともあるやろ?
え?アタシだけ?
「記憶の中でサツキは生きてるからって?だからフミは、サツキのふりをすんのかよ。そんなのおかしいだろ!いい加減受け入れろよ!もう、サツキは死んだんだよ!サツキが言った通り、俺たちはいつかサツキを一瞬でも忘れる日が来て、それはしょうがないことで!だからもうやめろよ!」
電車内は俺たち二人の貸し切りになっていた。フミは俺の大声に少しだけのけぞって、すぐに無表情に戻った。それは「あいつ」の表情ではなく、フミ自身の表情だった。「あいつ」はいつだって空元気を振り回して、どんなときだってへらへら笑っていた。
一年前の夏、死のうとしたのは確かにフミで。30分に1本の特急を線路の上で待っていたのは確かにフミで。でも、死んだのはサツキだった。あの日、珍しく遅刻した俺が見たのは、いつもイヤホンをさしていた耳は切れ、マリオネットのように関節を曲げるサツキだった。あれは間違いなくサツキだった。
きっとフミは、アタシが死んだのは自分のせいやって思ってるんやないやろうか。フミが生き延びる代わりに、アタシが死んだから、フミは死にたいなんて言えなくなったんやろうなあ。…だからフミは、自分にアタシを投影して、アタシをあと80年、生きさせようとしてるんよ。あの日フミが描いていたシナリオを、ちゃんと実現させようとしてるんよ。
「サツキはここにいるやんか。変なこと言わんでよ、涼太」
もうフミの姿はなかった。
フミの中で、アタシを死なせるわけにはいかないみたいやよ、涼太。
いつもの、耳のずっと奥から聞こえる「あいつ」の記憶ではなかった。初めて聞いたよ
うな気がした。
「アタシ、余命80年なんやって」
電車は止まる。
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