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 中島さんの栄転が決まった。非常に喜ばしい。この上なく。クラッカーとか買ってくるべき。栄転の日は祝日にすべき。  志織は仕事帰りのスーパーでぶつぶつ呟いていた。時刻は午後9時。近くに客がいないことが救いである。総菜コーナーで足を止め、半額のから揚げとだし巻き卵をかごに入れた。次いでビールを2缶。冬は暖房がんがんの部屋でビールに限る。残業終わりは殊更だ。  結局、クラッカーは買うのをやめた。お世話になった上司の栄転を喜べないなんて最悪だ。でもしょうがないじゃないか。 「好きなんだもん……」 呟いた声は、誰にも聞こえずにスーパーのリノリウムの床に落っこちていった。  残業終わりの習慣は、中島を真似たものだった。この前の飲み会で話しているのを盗み聞きしたのだ。  その日、中島の隣の席を取りそこなった志織は、お局様と新卒ちゃんの隣で相槌マシーンと化していたが、志織の飲み会の目的は彼一択である。  酒に弱い志織は、飲み会に出てもなんとなく損した気持ちになるのが常で基本的にはパスしているが、中島の出る飲み会には出来る限り参加するようにしていた。  隣の席でなければ、話せる機会は皆無に等しい。それでも、彼が楽しそうに話している空間にいられるだけで満足だった。運が良ければ会話も少しだけ聞こえるし。  中島のギャップを初めて目にしたのは、社会人一年目の飲み会の席だ。新入社員の歓迎会として開かれた飲み会に、志織は中島の隣の席で参加していた。 「羽鳥、酒は強いタイプか」 歓迎会当日の昼休みに中島に能面で聞かれて、志織は首をすくめた。 「いえ、どちらかというと下戸で……でも大丈夫です。飲む練習してきたんで!」 どんと胸を叩くと呆れた、とため息をついた。 「歓迎会でつぶれるとかやめてくれ。周りに迷惑だ。適当に一杯頼んで一口だけ口つければいいから。それ以上飲むなよ」 「……はい」 学生気分だったなと反省する。言われてみればその通りだ。気分が悪くなって上司に介抱されるようなことがあれば目も当てられない。 志織が返事をすると、中島は無言で去って行った。  嫌われてはいないだろうけど、好かれてもいないだろうなあ。  中島は、志織の教育係だった。田舎から上京し、右も左も分からない志織に仕事を教えてくれたのは中島だ。  寡黙で笑わない彼を怖いと感じていたものの、志織が困っているときには必ず助けてくれる彼に頼るようになるまで時間はかからなかった。  彼が志織を助けてくれるのは、情でないことを志織自身が一番よく分かっている。教育係だからで、業務の一環だから。新入社員の成長も教育担当の評価に響くのだから当然だ。今も気にかけてくれるのは、元教え子のようなものだから。  中島と業務以外の会話をしたことはない。グレーな会話は、家が社宅かを確認されたことだけだ。志織は入社以来社宅に住んでいる。  職場から徒歩5分。家賃も破格なので、上京してきた志織には願ってもない物件だった。  中島は志織が社宅住みであることを知ると、残業を押し付けられる前に帰れと処世術を教えてくれたのだった。その社宅も、そろそろ出なければいけない。住めるのは3年目までで、志織は現在入社3年目である。  まだまだひよっこだが、教育係は1年目までしかついてくれない。2年目の頃は親鳥を探すように中島の姿を探していたが、3年目のなる頃には仕事の楽しさを覚え始めていた。  中島は酒が入るとよく喋る。業務中は必要最低限しか喋らない彼が、飲み会の席ではよく笑い、よく喋り、よく食べた。社会人一年目の志織の目には、ワイシャツの袖をまくり、あぐらをかいて談笑する彼は、なんだかとても大人に見えた。  上司たちは中島の普段とのギャップには慣れっこのようで当たり前のように受け入れているが、志織は動揺するばかりである。とりあえず中島の言いつけを守り、酒は乾杯の時に一口だけ飲んで放置している。  それを目ざとく見つけたのは同期の白石だった。 「羽鳥、全然飲んでないじゃん!」    
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