花火大会

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 その日の夜、夕食を終え、ニ階にあるケイティの部屋に向かった。彼女は床に腰を下ろして『クレヨンしんちゃん』を読んで大爆笑していた。彼女の膝の上では、飼い猫のししゃもが眠っている。あの肉付きの良い丸まった背中に今すぐ後ろから抱きつきたい。むしろししゃもになって膝の上で眠りたい。友人に対してそんな願望を抱く私は、変態なのだろうか。  私が来たのに気づいたケイティは、「しんちゃんってやっぱり最高ね、むさえがたまんない」とメガネの奥の目尻の涙を拭った。私的には、半袖姿の彼女の剥き出しになった肉感の良すぎる二の腕と、涙目になりながら笑っている顔こそ『たまんない』。  ケイティは私に日本語を習ったおかげで、簡単な字の読み書きができるようになった。今ではこんな風に、子どもが読めるレベルの漫画を日本語で読んで笑うほどになった。 「ケイティ、トウマと花火大会に行く気はない?」  本当は聞きたくなかったのだ、私だって。案の定、ケイティは最初、「え‥‥‥」と戸惑った様子だった。それもそのはず。彼女は男性に免疫がない。過去に告白した相手から容姿のことを指摘されたり、子どもの頃クラスメイトの男子たちに酷い揶揄いを受けた経験から恐怖心を抱いているのだ。最初トウマと三人でカラオケをした時、彼のことをあとから「良い人」だと言っていたけれど、二人きりで出かけるとなると勝手が違うのだろう。 「彼、あなたを気に入ってるみたいなの。凄く良い奴だから、変なことは絶対にしない。証明するわ」  日本語に、彼女の母国語のフランス語を交えて語りかける私を、ケイティのライトブラウンの目が見つめている。どこか悲しげで、何か言いたいことがあるのに言えずにいる。そんな色をしている。  ケイティは俯いてしばらく考え込んだ後で、 「二人で行くのは、少し怖いかな‥‥‥。トウマくんがいい人だっていうのは分かるの。だけど‥‥‥」  と後半の台詞を言い淀んだ。 「そっか‥‥‥」 「レンカも一緒に行くならいいわ。友達も帰ってくるんでしょ?」  友達というのは、もう一人の幼馴染のミコトのことだ。ミコトは横浜の全寮制の私立高校で学んでいる。幼い頃から英会話を習っていた彼女は、超エリートで英語がペラペラ。通訳になるのが夢らしい。彼女から明日帰ってくると昨日連絡があったばかりだった。花火大会はその翌日だ。 「うん。じゃあ、ミコトも誘って四人で行こうか」  トウマはショックを受けるかもしれないけれど、ケイティが怖いというなら仕方ない。ケイティは私の言葉に安心したように微笑んだ。私も内心安堵していた。これで二人きりで行かれたら、そしてありえないけれど万が一二人が付き合うなんてことになってしまったら、花火大会が切ないだけの思い出に変わってしまう。  私の心の中には、白と黒の自分がいる。『白レンカ』は、「ケイティとトウマが幸せならそれでいいじゃないの。二人のために身を引きましょう。それが自己犠牲の精神‥‥‥本当の愛というものよ、おほほ」と囁きかけている。もし幼馴染とケイティが国際結婚なんてことになったとしても、それはそれでアリだと思う。トウマは万人から良い人と太鼓判を押されるような人間だし、きっと彼女を幸せにしてくれる。もちろん辛いけれど、二人の幸せなら願える気がする。  一方で、「ケイティを誰にも渡すもんか! ぷよぷよの触り心地最高なお腹も笑ったときに目の見えなくなる顔も、メーガン・トレイナーみたいな丸顔もくりっとした目も全部私のもんだ! きぇっきぇっきぇっ」と高笑いしている『黒レンカ』もいる。今のところどっちが優勢かと聞かれたらどっちも同じくらいなんだけど、多分黒の方が若干上回っている。  花火大会に着て行く浴衣をレンタルする話をケイティが持ち出し、私があらぬ妄想に胸を膨らませかけた時、ちょうど母がスイカを持って現れた。 「浴衣なら、お姉ちゃんが前に着ていたのを着ればいいわ。きっとぴったりなはずよ」  170センチ以上あってがっちり体型の姉は、大きめのサイズの浴衣を着ていた。私とケイティと母はスイカを食べた後、浴衣を試着するために隣の姉の部屋に向かった。姉は今、横浜の警察学校に通っている。お盆になったら帰省するらしい。  ケイティが着替える姿を見て正気を保っていられる自信がなかったので、姉の部屋を出て廊下の1番端にある自分の部屋に向かった。電話をかけてトウマに事情を話し、四人で行く形でも良いかと尋ねたら、『もちろん良いよ』とあっさり了承してくれた。 『俺も後から考えたんだけど、やっぱ二人きりは照れるなって。お前とミコトがいてくれた方が俺も安心だし、ケイティちゃんも安心だと思うから』  トウマがそう言ってくれたことに、胸を撫で下ろした。彼の性格的にそれはありえないけれど、もしここで二人きりで行かせてほしいと粘られていたらかなり困ったことになったであろう。 「ねぇトウマ‥‥‥」 『どうした?』  私もケイティのことが好きなんだ。彼女も私のことが気になってるって友達づてに聞いた。何度も告白しようと思った。だけどできなかった。突然言われたら、彼女が戸惑うんじゃないかと思ったから。何より勇気がなかったから。恋愛に臆病な彼女と私は、かえってゆっくりの方がいいと思ったから。    溢れそうな言葉たちを、出てくるすんでのところで飲み込んだ。 「ううん、何でもない。花火大会楽しみだね」 『ああ、そうだな!』  またな!とトウマは電話を切った。何だか泣き出したい気持ちになって、しばらく枕に顔を埋めた。
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