お客様、お忘れ物ですよ

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2002年7月7日21時52分。 「鉄道が止まって、駅の方は大混乱みたいですね」 「そのようだね。早々にタクシーを拾えて幸運だったよ」 タクシーの車内で、身なりの良い中年の紳士が運転手とそんなやり取りを交わす。最寄り駅の近くで架線トラブルが発生した影響で、普段使っている路線が今夜は止まっている。 駅周辺はタクシーや代行運送のバスを待つ人々で溢れ返る中、紳士は幸いにも駅に着く前に状況を知り、通りすがった空車のタクシーを捉まえて帰りの足を確保することに成功した。駅の混乱に巻き込まれていたら、帰りはそうとう遅くなっていたことだろう。 「鉄道はよく動脈に例えられますが、こういう時にそれを実感させられますね。動脈が機能不全に陥るのは致命的だ」 「まったくだ。鉄道は動脈で、確か道路交通は毛細血管だったか」 「僕の場合は個人タクシーですし、よりマクロな白血球ですかね」 「それを言うなら赤血球だろう。白血球は運び屋じゃなくて、異物の排除が仕事だ」 「これはお恥ずかしい。なかなか違いが覚えられなくて。ついつい白い方を口走ってしまいましたが、僕は白タクではないのでご安心を。れっきとした緑ナンバーですよ」 「疑ってなんていないよ。君は面白いな」 「よく言われるんですよ。お前は口から先に生まれてきた男だって」 タクシー運転手との会話は人によって好き嫌いが分かれるだろうが、紳士はむしろ積極的に会話を楽しむタイプだった。特に今回の運転手はまだ若いが、話し上手で退屈しない。時間が経つのを忘れてしまうようだ。 個人タクシーと言っていたし、大手にネームバリューで劣る分、こういったトークの技術などで個性を出しているのかもしれない。 「先月はタクシー業界も忙しかったんじゃないかい?」 「お陰様で嬉しい悲鳴でしたよ。ワールドカップ特需で海外からのお客様もたくさんいらしていましたから」 「私はサッカーにはあまり詳しくはないが、あの熱狂には感慨深いものがあったよ。決勝戦は確か横浜でだったか」 「ドイツ対ブラジル戦ですね。観客動員数が69000人ぐらいだったかな。僕も会場で応援したかったけど、生憎とチケットがゲットできませんでした。ブラジルの圧巻の2ゴール。生で見たかったな」 「サッカー好きなのかい?」 「中高はサッカー部でした。青春時代の大切な思い出です。それだけに日本でワールドカップが見れるというのは興奮しましたよ」 決勝戦から一週間。日韓ワールドカップの熱狂は冷めやらず、タクシードライバーと乗客の間ではこの時期の会話の鉄板だった。 『午後九時ごろに発生した架線トラブルは未だ復旧のメドが立たず――』 「長引いてるな。明日にも響かなければいいが」 「本当ですね」 小さな音で流していたカーラジオが最新のニュースを伝える。トップニュースはやはり、現在進行形で発生している鉄道トラブルであった。 「そういえば夕方のニュースは聞きましたか? 鉄道が止まる前の」 「把握していないが、何か面白いニュースでもあったのかい?」 「先月大阪で身元不明の射殺体が発見される事件があったんですが、今日になって被害者が、時効を迎えた凶悪事件の犯人の可能性があるって情報が出てきて」 「凶悪事件というと?」 「十六年前に都内で起きた強盗殺人ですよ。資産家夫婦の屋敷に二人組の男が強盗に入り、多額の現金を奪った上に夫婦を殺害した残忍な事件です。残念ながら去年時効を迎えてしまいましたが」 「そんな事件もあったな。時効間近に特番をやったりもしていたね」 「射殺体で見つかった人物が強盗犯の一人かもしれない。どこのメディアもその話題で持ちきりですよ。死に方が死に方なんで、裏社会との繋がりがあったんじゃないかとか、もう一人の強盗犯が殺したんじゃないかとか。様々な憶測が飛び交っているみたいですね」 「事件当時に取り分で仲間割れしたならともかく、時効を過ぎた今になって、もう一人が手を下すとは思えないが。新たに罪を重ねるのはリスク以外の何物でもないだろう」 「同感です。まあ所詮は憶測ですしね」 「そもそもどうしてその男が十六年前の犯人かもしれないと?」 「そこまでは僕も把握していません。まだ第一報が流れただけですから。後日警察から正式な発表があるそうなので、近日中には詳細が明らかになるんじゃないですかね」 「そうか。真相が気になるから、ニュースには目を光らせておくとしよう」 「それにしても、天罰って本当に存在するんですね」 「天罰?」 「経緯はどうであれ、大罪を犯しながらも法の裁きを逃れた悪党が死んだわけですから。これって天罰じゃないですか? 正直スカッとしましたよ。どこかにいるもう一人にも天罰が下ったら面白いんだけどな」 「いくら悪人相手とはいえ、人が殺されることを面白がるのは不謹慎だと思うよ」 「……これは失礼しました。ついついヒートアップしちゃって」 運転手は申し訳なさそうに苦笑した。内輪のノリならまだしも、偶然乗り合わせた運転手と乗客の立場でするような話しではない。 「そういえば、丸の内の商業ビル。改築が終わってもうすぐオープンするらしいですね」 「そうらしいね。一帯がまた盛り上がりそうだ」 運転手はケロッとした様子で話題を早速時事ネタへと切り替える。乗客の紳士もこういった話題の方が気楽だった。  ※※※ その後も他愛のない会話を続けている内に、タクシーは目的地である紳士の自宅前で停車し支払いに入っていた。 「今お釣りを」 「チップと思って取っておいてくれ。君は話し上手で乗車中も退屈しなかった。そのお礼だ」 「光栄です。ありがたく頂戴します」 お釣りを突き返されると、運転手は臨時収入を笑顔で受け取った。 「お客様。お忘れ物はありませんか?」 「ああ、大丈夫だ」 所持品のセカンドバッグもきちんと持っている。忘れ物への気遣いには好感が持てたが……。 「支払いも済んだし開けてくれないか」 この時点で扉が開いていてもよさそうなものだが、どういうわけか運転手はロックを解除する素振りを見せない。 「お客様。本当にお忘れ物はありませんか?」 正面を向いたまま、運転手が再度問い掛ける。流石に確認が過剰だ。 「大丈夫だと言っているだろう。さっさと開けてくれ」 しつこい確認に紳士も不愉快そうに語気を強めた。これまでは好印象だったのに、評価が一変しつつある。 「いいえ。お客様はとても大切なものをお忘れですよ」 紳士の方を振り向いた瞬間、運転手はダッシュボードから取り出した拳銃を紳士へ向けた。その表情と声色はこれまでの好青年な印象とは一線を画し、流氷のように凍てついている。 「わ、私が何を忘れたと?」 「自らの犯した罪の清算ですよ。十六年前に起きた資産家夫婦強盗殺人事件。二人組の犯人のうち一人はあなたですね」 あまりにも衝撃的な一言に、紳士は直ぐには言葉を返すことが出来なかった。 「言い逃れを考えているのなら無駄な努力です。僕はすでにあなたが犯人であると確信している。あなたの共犯者に情報を吐かせた上で、万が一にも間違えてはいけないから、この一カ月間念入りに裏付けを行ってきた。間違いなくあなたが犯人だよ」 「……まさか、あいつを殺したのも」 「あいつか。ずいぶんと親し気じゃないですか」 指摘を受けて紳士は失言を悟った。運転手はとっくに紳士が犯人の一人であると確信しているが、射殺された男を知っている素振りを見せたことで、その確信はより強固なものとなった。 「お察しの通り、あなたのお仲間を殺したのも僕ですよ。銃口を突きつけて脅したらすんなりと情報を吐きました。その程度で罪が濯がれることはないけどね」 「……お前は一体何者なんだ?」 「悪を排除する殺し屋。白血球みたいなものですよ」 「……あ、あの事件は時効だ。私は許されたんだ」 「罪も過去に置いてきたとでも言うつもりか? 清々しいまでにクズですね。あなたのような法の裁きを逃れたクズを始末するのが僕の大切なお仕事。今日も掃除のし甲斐がありますね」 「待ってくれ。話し合おう。この命をいい値で買ってもいいぞ」 「強盗殺人で得た金を元手に事業を始め、成功を収めたそうですね。人を殺して奪った金で今度は自分の命を乞う。どこまでも救いようがない」 言い訳も懐柔も何の意味も成さない。紳士の醜悪な本性の数々を目の当たりにしたところで運転手の興味も尽きた。引き金にかけた指に力が込められる。 「わ、分かった! 今から出頭するから。どうか命だけは……」 「時効を迎える前にそうしたなら、僕がこうして姿を現すことも無かった。今更後悔しても遅いですよ」 「待っ――」 一発の銃声が車内に響き渡った。一見すると平凡なタクシーだが、この車両は防音を徹底した特別仕様。近隣住民が異変に気付いた様子はない。 「任務完了。死体はお届けしますので、事後処理はお任せします」 PHSで所属組織に連絡を入れると、後部座席に射殺体を乗せたまま、運転手はタクシーを発進させた。数日後には遺体が上がり、大阪の事件に続き、新たに十六年前の強盗殺人の容疑者が遺体で発見されるセンセーショナルな話題が世間を駈け廻ることだろう。 法の裁きを逃れた悪人を始末するために、今日もどこかで彼は暗躍している。  了
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