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遭遇
ざざん、ざん。ざん。
浜辺を歩くと、いつもと同じく規則正しい波の音が聞こえてくる。
寄せては返す波を眺め、波が陸に運んでくるものを眺めるのが、夕花姫にとってはなによりもの楽しみだった。
「おひいさん、見てみて! こんなにすごい貝が落ちてた!」
そう言って夕花姫に、子供の顔の半分くらいの大きさの貝殻を見せてくるのは、漁師の子供のさちであった。それに夕花姫は破顔する。
「すごいわね、これだけ大きな貝殻を並べて紐を通したら、立派な首飾りになるわ」
「すごい!」
さちはまだ年端もいかない童女ではあるが、夕花姫は明らかにそうじゃない。
ぬばたまの髪は背中を覆うほどに真っ直ぐ長く伸び、小袿は杜若に合わせている。たゆたう波を背景に歩く姿は、発光しているように見えるほどに美しい娘だが、その笑みを隠すこともない様は、さちよりも幼くも見える。本来だったら家族や連れの侍女以外に顔を出してはいけないような立場ではあるが、こうして屋敷を抜け出して浜辺まで出歩く癖がついていた。
更に悪い癖はというと。
「あら、これは?」
「なんかね、流れ着いたんだよ。どこかの船がひっくり返って積み荷だけ流れてきたみたい」
さちの説明に、夕花姫は目を輝かせた。
彼女のもうひとつの悪癖は、面白いと思ったものはどんなものでも持ってきてしまうという拾い癖であった。
流されてきたものをマジマジと見る。本来はつるんとしていたであろう重箱も、潮騒に揉まれてすっかりと表面が傷だらけになってしまっていた。
その紐を解いて中身を覗いた夕花姫は、「まあ、もったいない……!」と叫んだ。
中に入っていたのは巻物であった。それもこの辺りでは貴重な紙の巻物であった。潮風でなにもかもが傷みやすいこの国では、都と違って紙はなかなか手に入らず、父が都とやり取りするための手紙くらいでしか、ほとんど使われることもなかった。夕花姫の手習いも専ら木の短冊で行っている。
広げてみると、それは本来ならば物語の写しだっただろうに、すっかりと墨が滲んでしまって、読み取ることも叶わなかった。
「まあ、本当にもったいないわ! なんとかして乾かしたら、半分くらいは読めないものかしら」
「おひいさん、これってそんなにすごいものなの?」
「すごいものなのよ! だってこの国だと都の流行りの物語なんて、滅多に読めないんですもの!」
生乾きの巻物をひしっと抱き締める夕花姫を、さちは怪訝な顔で見た。
この国では都の流行小説を読むのも、船が転覆せずに届いたとしても数か月経ってからでなければ目にすることも叶わないのだが、残念ながら漁師のほとんどは文字が読めず、物語の価値を夕花姫ほどにはわからない。
そうしていたら、日焼けした子供が走ってきた。漁師の子供のげんたである。
「おひいさん、やばいよやばいよ、そろそろ来るよ!」
「あら……撒いたと思ったのに、もう見つかったの?」
「うん、居場所を聞かれたから、どうにか誤魔化したけど、でも探すの全然諦めてないから、もうそろそろ来るよう……」
げんたは涙目になるので、夕花姫は生乾きのまま巻物を自分の小袿に挟んでから、ポンポンとげんたの頭を撫でた。
「大丈夫よ。げんたは怒られないわ。ただ私に少々口やかましいだけだけれど、あれも悪い奴ではないから」
「その漁師の子供に庇われている姫様は、なんなんですか」
怜悧な声に、夕花姫は「ひいっ……!」と肩を跳ねさせた。
直垂を着て腰に刀を佩いた青年は、夕花姫と年齢はそこまで変わらないように見えた。切れ長の瞳にきりりと引き締まった口元は凛々しい。もしも都の姫君であったら黄色い声を上げるだろうが、夕花姫からしてみれば見慣れた顔に過ぎない。
国司の元で侍を務めている夕花姫の幼馴染、暁の最近の仕事は、専ら屋敷からの脱走癖のある夕花姫の捜索と保護であった。
夕花姫は唇を尖らせる。
「ひどいわ! 私、今日は食べ物をなにも拾ってないのよ!?」
「拾わないでください。一国の姫様が、拾い癖がついて漁師の子供と一緒に拾い食いしているなんて知られたら、普通に笑われます」
「一国の姫ってなにそれ! 私、全然姫扱いなんてされたことないわ!?」
「なにをおっしゃいますか、雨風を気にしない屋敷で寝起きできて、いい身なりをして食べ物に困らない生活のなにに不満がおありですか」
「そうかもしれないけれど! だってここ、なんにもないじゃない……!」
そう夕花姫は、ぷぅーっと頬を膨らませて抗議した。
漁師の子供たちはというと「またはじまった」という顔で夕花姫と暁のやり取りを眺めるばかりであった。
「またおひいさんと侍さん、言い合いはじまっちゃったね」
「おひいさん、この間拾った貝を食べてお腹壊しちゃったから、余計に過保護になってるんだよ。貝は当たるときは当たるし、当たらないときは当たらないから、拾わなければ問題ないって話でもないんだけど」
「でも侍さんもいい人だけどね。だっておひいさんが遊び足りないと判断したら、遠くで待ってるし。この間もおひいさんが干物づくり手伝ってくれてたの、遠くで待っているだけじゃなくって手伝いに来てくれたしね」
「屋敷に住んでる人は、もっと偉そうにしてるのかって思ってたけど、ふたりともちっとも偉そうじゃないもんね」
さちとげんたがそう話している間も、夕花姫と暁の漫才は続いている。ところどころ物騒な会話が飛び交うが、さちやげんただけでなく、このふたりのことを知っている人間は誰ひとりとしてまともに取り合わない。よくある話なのだから。
四方を海に囲まれた小国において、いくら貴族の姫と言っても都に住む者たちからしてみれば田舎者扱いは避けられないし、それがわかる程度には知識があるのだから、悩ましいところである。
暁は溜息交じりに、夕花姫に言う。
「姫様、いい加減そろそろ落ち着いて屋敷にお戻りください。いくらここの海は荒れないとは言えど、海賊が現れたり、不法侵入者が現れることもあるんです。せめて俺の目の届く場所にいてくれなければ困ります」
「あら、そうは言っても私。生まれてこの方、海賊なんて見たこともないし、あの子たちに聞いても『知らない』って言われてるわよ?」
「そうかもしれませんが。万が一ってこともありますから。海が荒れないってことは、誰でも自由にこの国に出入りできるってことなのですから」
「うーん、そうかもしれないけど。でもここからじゃなかったら、海の向こうが見えないじゃない」
そう言って、夕花姫は指を差す。
彼女が指を差した方角には、海鳥がついーっと優美に空を飛んでいるのが見える。その向こう……本当に目を凝らさなければ見えないが、海の向こう側がわずかばかり見える。
雲ひとつないときでもなければ、海の向こう側を拝むことなんてできない。
夕花姫はこの国の国司の娘だ。父が国司を降りない限りはこの国から離れることはできないというのはわかっているし、波の音の聞こえない生活なんて考えたこともないが、それでも浜辺に打ち上げられるものを拾い上げるたびに、都からやってきた物語に目を通すたびに思うのだ。
海の向こうには、いったいなにがあるのだろうと。
そして都はいったいどんな場所なのだろうと。
「私、一度でいいから海を渡ってみたいの。もしもできるなら一度でいいから都に行ってみたいし、どんな場所なのか歩いてみたいの。物語をお腹いっぱい読んでみたいし、都の食べ物だってどんなものか食べてみたいわ」
夕花姫は夢いっぱいにそう訴える。
しかし暁は溜息交じりに、彼女の言葉を否定する。
「お言葉ですが、姫様。都は姫様が思っているほど平和な場所でも、物語に書かれているほど美しい場所でもないかもしれませんよ」
「あら。だって暁だってこの国から出たことないじゃない」
暁は幼馴染なのだから、夕花姫と同じく海の向こうの様子を間近で見たことはないことを彼女は知っている。
もっとも、彼は国司の元で働いているのだから、夕花姫よりも都の事情を聞くことは多いのだが。
「でも想像くらいは付きますよ。都では姫君は外を歩き回りません。悪漢が出て危ないからです。この平和な国しか知らない世間知らずが過ぎる姫様なんて、あっという間に攫われてしまいますよ」
「まあ! 私を脅しているつもり?」
「もうちょっと慎み深くしてくださいと申しているだけです」
「もう、意地悪意地悪意地悪っ! 私、いつだってなにもせずに逆らって屋敷を飛び出してなんていないわ! 稽古の時間が終わってからじゃないと出てこないもの!」
「……普通はそもそも、姫の嗜みを学んだあとに屋敷から飛び出すことなんて、しないんですよ」
「まあ! いつもいつもどうしてここまで口やかましいの! 暁は私の母様ではないでしょ!?」
夕花姫がぽこぽこと暁に胸板を叩いても、暁は動じることもなく、ただただ対応が素っ気ない。都の姫ほどでもないが、一応はやんごとなき身分の姫なのだから、痛いと思うほどの力がある訳ではない。
暁は叩かれながらも、ただ「もう充分遊んだでしょう。帰りますよ」の一点張りであった。
見かねたさちが、おずおずと夕花姫に言った。
「……おひいさん。侍さんもそうおっしゃっているし、帰ったら?」
「さちぃー、私を見捨てるのぉー?」
「見捨てるんじゃなくってね、おひいさんのお父さんも心配してるんじゃないの?」
そう言われると、さすがの夕花姫もぐうの音も出ない。
この国で一番偉い国司ではあるが、夕花姫からしてみれば優しい年老いた父である。
おろおろとする父には、お転婆が過ぎる彼女も弱いのであった。
観念したように、夕花姫は暁のほうに寄って、さちとげんたに手を振る。
「じゃあね、私そろそろ帰るから。また遊びましょうね」
「うん、おひいさん。さよなら」
「はい、さよなら」
こうして、小袿の裾を揺らしながら、夕花姫は暁に連れられて帰っていった。
ざざん、ざん、ざん。
波の音を背に、屋敷へと帰っていく。
これが夕花姫の日常であった。
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