131人が本棚に入れています
本棚に追加
36話
がちゃりとユニットバスの扉が開く音がして、里中が驚いた声を出し駆け寄ってきた。
「先輩!大丈夫ですか?!」
「あー……うん……よろけちゃって……」
三田村が出ていったのに追い掛けられなかった。追い掛けて、なんて声を掛ければいいのか、泣いている三田村に何を言えばいいのか分からなかったからだ。
床にへばりついたままでいた香川の隣にきた里中は、起こそうと手を貸してくれた。
「……悪いな……」
「……大丈夫ですか?」
上体を起こし、立ち上がらずに足を伸ばして座った。里中も同じようにしゃがんだまま、心配そうな目で香川を見ていた。
「うん……」
膝が痛むが怪我はない。しかし、里中は怪訝そうな顔のままだ。
「……怒鳴り声みたいなのが聞こえたんですけど……」
「……あぁ……オレが飲み過ぎたから……」
「喧嘩、したんですか……?」
「……うん」
喧嘩ではない。喧嘩なら良かったのに、一方的だ。お互いに一方的に怒鳴っただけで何も解決などしなかった。
そもそも解決するような問題ではなかったのだ、だから三田村はもう止めると言ったのだ、終わらせたのだ。
「……先輩……?」
「ほんと、平気だから……先、寝てて……オレもシャワー浴びてくるから」
「……はい」
里中は詮索してこなかった、ただ頷いて寝室へと入っていった。聞かれても困るだけなので、詮索されないのは有り難かった。
「……」
のそりと立ち上がる、膝ももう痛みはないし、それ以外にも怪我はなさそうだ。玄関の所に落ちていた通勤に使っている黒の鞄とジャケット、それに弁当箱の入った紙袋を取り上げる。
もう、終わりにすると言っていたけれどこれは返さなくてはいけないだろう。
食卓代わりの小さなテーブルの上にジャケットを、その下に鞄を置いて弁当箱だけ持ってキッチンへ行く。洗って返す、それがいつものルーティン。でももうこれで終わりだ。
長く長く息を吐き、香川は洗い物を始めた。
アラームよりも早くに目が覚めた、というより全然眠れなくて外が白み始めると、香川は諦めてただベッドで横になっていた。
半身を起こして床を見れば、里中はまだすうすうと小さな寝息を立てていた。起こさないように静かにベッドから抜け寝室を出る。
弁当箱を返すのはいつでもいいと思う、何も今朝行かなくてもいいのではと思うが早い方がいいだろう。
そう結論付けて顔を洗うと、香川は部屋を出て隣の部屋のチャイムを鳴らした。
いつもだったらこの時間起きてキッチンにいるであろう三田村に声を掛けドアを開けて貰っていたが、今日は何となくチャイムを鳴らしてしまった。早朝、という程早い訳でもないので近所迷惑ではないだろう。
直ぐにドアは開いた。顔を出した三田村は明らかに寝不足、という顔で香川を見ると短く「何?」と問いかけた。
いつも香川が見る三田村はきっちりと身支度を整えているのに、今朝はまだ珍しくパジャマのままだった。
「……これ……」
今更ながら今日持ってこなくても、いや、こんな朝から弁当箱を渡しに来なくても良かったのではないかという思いが込み上げてきた。
三田村の顔をまともに見れず、香川は俯いたまま弁当箱の入った紙袋を渡した。
「……あぁ……」
三田村は何を言うでもなく、ただそれを受け取った。
顔を上げれば、三田村と目が合う。目が充血しているのは寝不足のせいだけではないだろう、いつもの覇気もない、だけど香川には掛けるべき言葉が見つからなかった。
視線を外されたので、帰ろうとすると「香川」と小さく呼ばれた。
「……お前、朝食は?」
「……え?」
「後輩、いるんだろ……」
「あー……考えて、なかった……」
「……食うなら来い……」
「え……」
「後輩に聞いてみろ」
「……うん」
ありがとう、と言う前にドアは閉まってしまったし、視線が再び合う事はなかった。
でも、あんな遣り取りをした翌朝なのに三田村は気遣ってくれる。申し訳ないのに、嬉しいと感じる自分に嫌気がさす。
部屋に戻ると里中が丁度起きた所だった。
「おはようございます」
「おはよう……眠れたか?」
「あ、はい……先輩は……寝れなかったみたいですね……」
顔をまじまじと見られながら言われた、そんなに寝不足と分かる顔をしているのだろうか。
もしかしたら三田村もそう感じたから朝食の事を言ってきたのかもしれない、向こうも酷い顔をしていたが。
「……飯、どうする?朝いつも食べるのか?」
「あー……はい……適当に……」
この前泊めた時は翌日土曜で休みだった事もあり、遅めの朝食を駅前で食べたのだ。
今日もそれでもいいが、折角三田村が申し出てくれたので里中に提案を出す。
「……三田村が飯、食うかって言ってくれたから……」
「え……あ!あの、もしかして……いつもお弁当作ってくれるのって……」
「そう、あいつだよ」
「あぁ……そうだったんですね……」
「大学の同級生……隣に住んでるんだよ」
「……そうだったんですか……」
予想が外れたような顔をしている。菊池もだが弁当を作ってくれる『友達』というのが香川の彼女だと勘違いしている節がある。これで誤解も解けただろう。
「顔、洗ってくるか?」
「あ、はい」
「じゃあ、支度出来たら行こう」
「はい」
里中が洗面所へ行くと、香川は着替える為に寝室へと入って行った。
最初のコメントを投稿しよう!