42話

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42話

 火照った体が暑い、これで夜風でもあれば過ごしやすいというのに残暑はまだまだ厳しい。 「おい、真っ直ぐ歩けよ」 「あるいてるよ……」  ふらふら歩く香川を心配して三田村が斜め前から声を掛ける。時折止まっては声を掛けてくる三田村は相変わらず面倒見のいい奴だ。 「もう少しだから寝るなよ」 「……ねないって……」  眠いけど。通勤鞄を持つ手に力を込める、そうしないと落としそうだった。  だけどあと少し、その角を曲がって少し歩けばアパートだ。  帰ったらシャワー……浴びないとな、面倒だけどこのまま寝るのは嫌だ。面倒でもシャワーしてその間にエアコン付けて、そして寝よう。 「おい、曲がるぞ」  分かってるよ、返事をしたつもりだったけど声は音にならなかった。  一歩一歩上がるごとにカンカンと音がする階段、リズムは三田村の方が早い。  だけど、三田村は香川が落ちないか振り返りながら足を進めるので、時折その音は止まった。 「鍵、出せるか」 「うん……」  今日はジャケットがないので、鞄の中だ。ごそごそと探り、鍵を見つける。その間、三田村はじっと香川を見守っていた。 「じゃあ、おやすみ、香川」 「うん……おやすみ……」  ドアを先に開けたのは三田村だった。おやすみと穏やかな声、不意に込み上げてきたのは引き留めたいという衝動だった。 「三田村」 「……ん?」  半分部屋の中に入っていた体を戻し、三田村が何?という視線で香川を見る。  何を言いたかったんだ、何もない?いや、聞きたい事が………あった! 「素麺」 「は?」 「お前の部屋で食べた素麺、美味しかった……あれ、食べたくて……その、どこのメーカー?」 「あぁ……あれ、美味いよな、えーと」  商品名を言われたが全くピンと来ないし、スーパーでも見かけた事がない。 「この辺では売ってないかも、実家から送って貰ったやつで、元々親戚のうちから送って貰ったんだけど……通販してると思うから探してみて」 「うん……ありがとう……そうする」 「……おやすみ」  改めて、という感じで三田村が言う。別に今生の別れでもないのに。  引き留める理由などないのに。 「三田村!」 「……どうした?」  必死さが伝わったのか、今度はドアを閉め香川に向き直って聞いてくる。  酔っ払いだと思っているのだろう、三田村の顔は呆れていた。 「……香川?」 「お前、まだオレのこと好き?」 「…………お前酔ってるね……?」 「…………」  じわじわと頬に熱が集中する、酔って全身は熱かったのにまだ体温は上昇するのか、もしかしたら風邪かな?と関係ない事を考えた。  現実逃避を始めた脳みそでは言い訳も考えられない。  何を言ったらいいのか分からず香川は口をぱくぱくさせたが、言葉は出てこなかった。 「……はぁ……」  これ見よがしに三田村はため息を付いて天を扇いだ。暗い天井が見えただけだからか、直ぐに顔を戻し呆れた顔のまま口を開く。 「オレは米が好きだ」 「…………う、うん……?」 「明日から米が食えなくなるって言っても、うどんもパスタもあるし、パンもある、多分米が食えなくなっても困らない、いや、困るんだけど食べるものが何もない訳じゃないから死ぬ訳じゃないし生きてはいける、でもオレは米が好きだから米が食いたい」 「……うん……」 「うん……」 「…………」 「……お前は本当にデリカシーがないというか……」 「……ごめん………あと、お前の話よくわからない……」 「だよな!オレも分かんなくなったよ!!」  また、はぁと盛大にため息は吐いて俯いた三田村は、今度は自分に呆れているのだろう。  だけど、上げた顔は開き直っていた。 「まだ、かさぶたなの!米が食えなくなるって言ってパンやパスタがあってもやっぱりオレは米が好きだからすぐ米の事忘れられないの!!」 「オレは米なのか?」 「そういう事じゃねーよ!」 「……」  じゃあどういう事だよ。もう突っ込む気力はない。ただ、三田村の言葉を聞きたくて香川は黙っていた。 「好きだよ……まだ、お前の事、呆れるけど、好きだよ」 「………うん………」 「………じゃあ、もういいな?言う事はないな?おやすみ」 「うん……おやすみ」  ドアの向こうに消えた三田村を見送り、香川も自室に入る。  靴を脱ぎフローリングに膝を着く。まだ、じわじわと熱があるみたいに頬と言わず顔が熱い。  両手で頬を包み、その熱を体感する。 「……」  どうしよう。 どうしよう。 どうしよう。 頭の中で三田村の言葉を反芻する。 「好きだよ……まだ、お前の事、呆れるけど、好きだよ」  どうしてあんな事を聞いてしまったのか、今ならちゃんと理由が分かる。  三田村の想いを聞いて熱くなるのは全身で、多分一番熱いのは心臓だ、バクバク煩い。  知らなかった、こんな風に気持ちが重なってその想いに当てられたみたいに熱を持つ事があるなんて。  あの言葉がこんなにも嬉しく思ってしまうなんて。  知らなかった。そして、何で知らなかったのか、気付けなかった。  今まで向き合ってこなかったからだ。 自分はずっと三田村の気持ちから逃げていただけだ。怖かった、もし好きになってしまったら。友達でいれば隣にいる理由なんていらないから。  結局友達ですらいられなくなったけど、それでも考えないように、ずっと逃げていたのに、三田村はそれでも想い続けてくれていたのに。 「……三田村……」  どうしよう、こんなに嬉しいなんて思ってもいいのだろうか?もう、全部遅いのに、終わりにするって言われたのに。 「……ごめんな……」  ずっとこんな気持ちだったのか、こんなに苦しかったのか。好きっていう気持ちをずっと何年も抱えて隣にいる事がどんなに辛かったのか。 「……ごめん……」  頬を覆う指の間を涙が伝い落ちていく。今すぐ扉を開けて三田村の部屋のドアを叩けば間に合うのだろうか。わからない。  でもそんな勇気はない、だって何て言えばいいのかいまだに分からないのだ、好きだとシンプルに考えればいいのか、本当にそれでいいのか。  好きだと言われたのに。臆病な自分が嫌になる。  涙をぐっと拭っても、まだ溢れ出て止まらない。この胸の想いのようにそれは止めどなく流れた。  それが恋だとまだ認められずに、ただ止まるまで涙を流し続けた。
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