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 切っ掛けが何だったかは思い出せない、多分、決定的な何かがあった訳ではないのだろう。強いて言えば、唇が好きだった。ぽってりとして血色の良い健康的な色味の唇。  あれが、いつの間にか美味そうに見えていた。  それを自覚して、それが恋だと気付き今に至る。  そして、オレは今日も香川の為にキッチンに立つ。 ***  元々全く自炊をしない訳ではなかった。一人暮らしをする前から実家でも料理をする事はたまにはあった。料理といっても炒めたり、鍋で煮たりと簡単に出来る物しか作った事はなかったが。  だから、凝った料理など出来る筈もなく、一人暮らし以降もレパートリーが劇的に増える事もなかった。  だけど、ある日。 「三田村君も自炊するんだ」  バイト先の居酒屋での雑談。厨房の中、店主である杉並が調理をしている横で、ドリンクを作っていた妻の花梨(かりん)が驚いたような顔で言った。 「いや、自炊って言ってもいいのか……簡単な物しか作れなくて……あとやっぱり面倒だし最近はコンビニ弁当とか米だけ炊いて惣菜買って来る事が多いですねー」 「まぁ、最初はそんなもんだよ、あ、でも作れなくても作ってくれる彼女がいるのか~」  花梨は言いながら三田村の長身をじろりと一瞥した、まるで品定めされているようだが不快感はない。 「あはは、いないですって」 「本当に~?お客さんから聞かれるのよね、三田村君彼女いるのかって」 「あ~…………」 「じゃあ、適当に濁しとくから」  そう言ってくれるのは助かる。三田村目当て、とまではいかないが「三田村君が来てくれてから女性客が増えた」などと冗談めかして言われた事があるのだ。なので、お客に聞かれたというのは一人や二人ではないのだろう。 「ありがとうございます」  彼女は居ないが、今は欲しいとは思わない。欲しいと思えば直ぐに、とは言わないが難しい事ではないと思える位の自覚はある。  三田村想(みたむらそう)という男は、183センチと長身、ただひょろ長いと言う訳ではなくそれなりに筋肉の付いた恵まれた体型をしている。  小さめの顔に端正な顔立ち、薄い唇と一重の瞳は軽薄そうに見えるが、笑うと印象ががらりと変わる。親しみのあるその笑みとのギャップが周りの女性達の視線を奪う事は日常茶飯事と言えた。  だけど、彼女を作るという事は今の生活が多少なりとも制限される事にも等しい。独り身とはいかに自由なのか、一人暮らしと言う事もあり三田村は一人の時間を満喫していた。  少し前まで付き合っていた彼女が束縛系だったのがいけないのだろう、その反動だ。  今は大学生活もバイトも充実している、遊んでくれる友達だっていて寂しいとは思わない。たまに人肌が恋しいと思う事もあるし、欲求不満な夜がないとも言い難いが。  それでも彼女がいない生活というのも悪くない、三田村にとってはこの自由で気ままな生活が快適だったのだ。 「でも、あれよね、料理の出来る男ってポイント高いわよね~」 「おいおい、この顔と身長でこれ以上ポイント稼いでどうするんだよ」  杉並がフライパンから顔を上げ、菜箸で三田村の顔を指す。三田村の顔を花梨はうっとりとした表情で見つめ、顔はいいのよね、と付け加えた。 「それもそうだけど、料理が出来る男ってかっこいいじゃない」 「オレみたいな?」 「はいはい、そうね」 「旦那に対してそれはないだろ〜」 「料理しそうにない男が料理出来るっていうのがいいんでしょ………」  呆れたような表情で花梨が一瞥すると、肩をすくませ拗ねたように唇を尖らせる。店長の杉並の仕草は子供っぽいがもう40を過ぎたおっさんだ。 「はいはい、オレは料理しそうな男だよ」 「ラーメン屋の店主っていう感じだけどね」 「お前は一言多いんだよ、ほら、出来た、持って行ってくれ」 「はい」  夫婦漫才を聞き流しながら、出来上がった料理を運ぶ。確かに店長はラーメン屋の店主と言われれば納得しそうな風体だ。  短く刈った髪と首に巻いタオル、ガタイの良い体躯はいつでも黒Tシャツに前掛け。  これでも一流ホテルのレストランの調理場を経験した他、星のついたレストランでの調理経験もあるれっきとした元シェフだ。  だが本人は好きな酒と美味い料理を出す居酒屋を持ちたいと、経験と出店費用を溜め夢であった自分の店、この居酒屋TAISHOをオープンさせたのだ。 「お待たせ致しました、エビとブロッコリーのたらこクリームサラダと鶏肉とポテトの甘辛炒めと、おつまみきゅうりです」 「ありがとう、美味しそう~」  カップル二人で食事に来ているのだろうか、嬉しそうに彼女が言うのをこれまた嬉しそうに彼氏が見ている。  この店は居酒屋ではあるが、過度に酔っぱらうようなマナーの悪い客は来ない、酒を飲みに来るというよりも食事に来る客層が多いからだろう。  裏通りではあるが、毎晩そこそこの繁盛を見せている、空席を待つ客は今はいないがほぼ満席だ。  本当は夫婦漫才をしている場合の厨房ではないのだが、手はそれなりに動かしているからだろう、むしろホール担当の三田村が一番忙しいようにも見える。  皿を置き終えると、一息付く間もなく背後から声が掛かる。 「すみません、注文お願いしますー!」 「はい、只今」  一礼してから、次のテーブルへと移る。そう広くもない店内を笑顔で歩いていけば、女性客の視線が追ってくるのを感じた。 「お待たせ致しました」  にこりと笑顔で客に向かい合う。注文を聞き、カウンターの中へとオーダーを通す。料理を運び、空いた皿やグラスを下げ、会計をする。ホール内の仕事が三田村の受け持ちだ。  料理は主に店長である杉並大将(すぎなみたいしょう)が作り、ドリンク、デザートは妻である花梨が作る。だから三田村は自分が料理の分担を任される事になるとは思ってもいなかったのだ。
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