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「そうだーーーー青木、ニューヨークの大学に行くらしいよーーー」
あの日ーーーー先生は出勤前にネクタイを締めながらそう告げた。
気がつけば先生の人形になってから、10年以上経過している。
私はだんだんと、先生とする日常会話にもーーー外で演じるおしどり夫婦のようなやり取りにも違和感を感じなくなっていた。
それなのに澪の事だけはいつまでも頭の中にあってーーーー口には出さなくても澪の事を考えない日は無かった。
「そうーーー遠いねーーーー」
私はそれだけ言った。
先生の前でーーー澪に少しでも関心がある素振りを見せてはいけないーーーー
それは私が最も嫌う「お仕置き」の対象になるから。
「夢なんだ。ちゃんと実績を積んで外国の大学に行って、良い研究者をたくさん作る事…
日本よりアメリカの方が、設備も整ってるし、研究者が置かれてる環境だってすごく良いんだよ」
家を出る先生を見送りながら、私はいつか、10年前の澪が照れくさそうにそう話していた事を思い出した。
澪の夢が叶ったのかーーーーそう嬉しくなると同時に、澪がニューヨークに行ったらもう2度と会えないーーーー澪の姿を見れる可能性は、ほぼゼロになるなと寂しくなった。
「今もーーー会えないかーーーー」
誰もいなくなった家で、私は監視カメラに拾われない程の小さい声で呟いた。
今もーーーこれからもーーーずっと会えない。
だってそう決めたから。
ーーー先生に唆されて澪を脅してしまった翔也とーーーーその翔也をーーー私を守ろうとして殺してしまった澪の為にーーーー
こうやって生きる事を自分が望んだんだからーーーーー
ヴーーー,ヴーーー,ヴーーー……
突如聞こえた携帯のバイブ音に、私は肩をびくつかせる。
リビングのデーブルの横に置き去りにされた先生の携帯電話が、音を立てているーーーー
「ーーーーーー…」
その瞬間、私の頭は考えるーーーー。
コレを渡しに行く為に大学に行ったのならーーー私は許されるんじゃないかって。
大学に行ったらーーーもしかしたら一瞬でもーーーー澪の姿をーーーーこの目で見る事ができるんじゃないかってーーーーー
私はバイブ音を鳴らし続ける携帯電話を手に取り、それを自分の鞄に入れた。
先生に言いつけられている家事を済ませてーーー大学に行こうと思った。
一瞬でも澪の姿が見たいーーーーその思いは、一度その可能性を信じたら膨れ上がり、自分では止められなかった。
昼前に、私は家を出た。
澪がきっと好きであろう、黒いワンピースと、淡いグレーのコートを羽織って。
家の鍵を掛けて、私は自分の車に乗り込んだ。
一瞬で良いーーーー…一瞬でいいからーーーー
どうか今を生きる澪の姿を……私に見せて欲しいーーーー
私はそう祈りながら、車のエンジンをかけた。
これから起こる出来事なんて、微塵も予想をせずにエンジンをかけて、5センチほどのヒールでアクセルを慎重に踏んだ。
澪に会いたい。
ただその、一心で。
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