0人が本棚に入れています
本棚に追加
今日は授業が少しだけ早く終わり、京子とわたしは陽射しをたっぷり集めたベンチを見つけ、缶コーヒーを飲んでいる。児童公園と名が付いているものの、この時間帯は子供の姿はなく、力いっぱい枝を伸ばした緑の木々が、二人の女子高生を囲んでいるだけだ。
「ねえ、京子、平成十二年の十二月三十一日に、何やってたか覚えてる?」
「平成12年? そんな昔のことなんて覚えてるわけないだろ」
京子は顔もよくて、スタイルもよくて、頭も抜群によい。特に記憶力はすごくて、教科書は一回読んだだけで覚えてしまうし、先生が黒板に書いたことも、見てるだけで全部記憶してしまうので、ノートすらとらない。そんな彼女だから覚えてるかな、と思ったのだけど。
「でも、寧々子が何をやってたかなら覚えてるぞ」
「わたしが? 何でそんなこと覚えてんのさ」
「おまえはその日、紅白歌合戦を見てた」
「ああ、それか」
わたしたちは児童養護施設で日々を過ごしているのだが、大晦日、子供たちはたいてい紅白を見る。けれども京子はポップスは嫌いみたいで、クラシックのコンサートが始まった頃にテレビの前に現れる。本当は消灯時間なのだが、年に一度のことなので、「もう寝なさい、いつまでも起きてると電気代の無駄よ」という小言も施設のスタッフから飛んで来ない。それが毎年の恒例だ。毎年のことなら、そりゃあ覚えているよね。
「西暦2000年なんて5年も前だぞ。そんなこといちいち覚えてるかよ」
「あれ、平成十二年て、二千年だっけ」
「寧々子、おまえ、ホントに数字に弱いな」
京子は小馬鹿にしたような口調で言った。
「いつもわっちが言ってるだろ、外出する時は脳みそを忘れずに持って出なくちゃ駄目だって」
京子は相変わらず口が悪い。こいつは常に乱暴な喋り方をする。
もっとも、眉目秀麗で頭脳明晰な人は、普通だと、近寄り難いということになるんだけど、こいつの荒っぽい言葉遣いのせいで、男子も気軽に話し掛けられるようだ。人気もある。
一方、女子に対しては、
「おめえら、寧々子の悪口を言うんじゃねえぞ」
と睨みを利かせている。
「寧々子の悪口を言っていいのはわっちだけだからな」
いや、おまえだって他人の悪口を言っていいわけじゃないだろ。まったく、もう。
それに反してわたしはといえば、けちくさい養護施設で育った反動か、優雅でお上品な路線で行こうと決めている。だが、京子は、
「止せ、止せ。お上品なんておめえに似合わねえよ」
と言ってわたしの背中をばしっ、と叩いたりする。
それを見ている周りの連中は、
「あの二人って仲がいいのね」
「親友の間柄なのね」
などと勘違いをしているのだ。
こいつとは仲がいいわけではない。単に、幼い頃から同じ児童養護施設で育ったんで、相手の腹の中が読めているというだけだ。親友? とんでもない。ただの腐れ縁だ。
「そうか、平成十二年は二千年か。それで思い出しちゃった。平成十二年の十二月三十日に何をやってたか」
「30日に何やってたんだ?」
「大掃除だよ」
京子は、なーんだ、そんなことか、という顔をした。
その日、わたしは施設のトイレを掃除していたのだが、詰まらせてしまったのだ。
ティッシュペーパーのような水に溶けないものを流してはいけない、ということは知っていた。だが、トイレットペーパーのような水溶性のものも、大量に流すと詰まることがある。それを知らなかった。
わたしの場合はトイレ掃除用シートだった。ちゃんと「トイレに流せる」という表記を確認したのだが、やっぱり一度にたくさん流してはいけなかったらしい。それで失敗した。
「そんでもって、雪でも降りそうな寒い中を、ドラッグストアまでプランジャーを買いに行ったわけ」
「何その、プランジャーって?」
京子は問い掛ける。
「俗に言う、『すっぽん』ね。トイレの詰まりを直すやつ」
「ああ、棒の先にゴムで出来たお椀が付いてるやつか」
「そう、あれ」
商店街に行くと、そこで知ってる顔に出会った。
「バスケ部の山岸先輩って覚えてる?」
「懐かしい名前だね。ヤマさんだろ」
「途中でヤマさんに出くわして、『これからミレニアム・カラオケ・パーティーやるんだけど、一緒に行かない』なんて誘われたわけ。でも、こっちはすっぽん買いに行かなきゃいけないじゃん。『これから買い物があるので』って言うと、『じゃあ、付き合うよ』なんて言うしさ。いや、さすがにすっぽんに付き合われても困るじゃん」
「ははは、そりゃそうだ」
「うら若き乙女としては、男子の前ですっぽん買うのは抵抗あるよね」
「そりゃまあな。中学1年の女子が、『大量にうんこをしたんでトイレが詰まりました』とは言いづらいよな」
「違う! 違う! 違う!」
わたしは京子の頭をぱしっ、とはたこうとして、かわされた。
「紙を詰まらせたんだってば! このバカタレが!」
京子のやつはへらへら笑いながら、ああ、そうだったの、なんて言ってやがる。もう、ほんとにこいつは。
「結局、何とかヤマさんを振り切ってドラッグストアまで辿り着いたんだけど、寒い日だったのに汗かいちゃったよ」
「あれ、寧々子って、ヤマさんに気があったの?」
「まさかぁ、ぜーんぜん」
何でそんな話になるんだ。
「ああ、それならいいんだけどさ……」
京子は、わたしの肩に腕をまわし、真面目な顔でわたしを見つめた。京子の髪は昨日までとは違うシャンプーの香りがする。
「……わっちと寧々子の仲なんだからさ、気になる男がいるんだったら、ちゃんと言ってくれよ。そしたらおめえに譲るからさ」
何だ、その譲るからって?
「……あれ、京子って、もしかしてヤマさんと付き合ってたの?」
「バーカ、あんな退屈なやつとなんか付き合うかよ。1回遊んだだけだよ」
うわっ、それは知らなかった。もっともわたしはお上品路線でありますから、誰と誰がどういう遊びをしようと嘴を入れたりはしませんけどね。
「あれれ、今、ちょっと不思議に思ったんだけど、トイレが詰まった時は結構、施設で大騒ぎになったわけだけど、あの時、京子は何してたの? 京子を見た記憶がないんだよなあ」
「まあ、わっちは、現場には介入しない主義だから」
京子は威張って言い放った。
「……それは大掃除をさぼってたってことか?!」
「わっちは忘却術っていう魔法を使えるからね。大掃除の時はみんな京子さんの存在を忘れてるっていう寸法よ」
こいつはまったく……。こっちはトイレ掃除で苦労してたっていうのに。
そういえば更に思い出した。記憶が芋蔓式によみがえってきたね。
「その日はとことんついてなくてさ。ドラッグストアですっぽんなんてのを買ってたら傘忘れちゃって。百円均一の店で買った安物とはいえ、たった一本しか傘持ってなかったから痛手だったよ」
「へい、寧々子、それがおめえの悪い癖だぞ。何でもすぐに決め付けちゃ駄目だぜ」
どういうことだ、という風にわたしは首をひねった。
「そいつは忘れたんじゃねえ。わっちが傘を持ってったんよ」
「こらこら、何でおまえが持ってくんだよ」
「わっちと同じクラスだった葱村っていただろ」
「ああ、あいつか」
わたしはげんなりした声を出した。葱村くんから、付き合ってくれって言われて断ったんだけど、あきらめが悪いというか、しつっこいというか……。
「あいつが関西に引っ越すんで、何か思い出の品が欲しい、なんて言うからよ。ほら、あいつ、寧々子に気があっただろ。だから寧々子の持ち物をあいつに渡してやったのよ」
「バカタレ! 他人のもんを勝手に渡すんじゃない!」
「おいおい、無料で渡したわけじゃないんだぜ。ちゃんと500円もらったから。その金で石焼き芋買って、おめえと食べたじゃん」
あの焼き芋はそれか。そういえば、あの時、芋を喉に詰まらせて、施設のちびすけに、寧々子ちゃんはよく詰まらせるなあ、なんて笑われたんだっけ。なんか、ろくでもないことばっかり思い出すな。
「葱村もよろこんでたぞ。ビニール傘の柄に頬をすりすりさせてさ」
「うえっ」
何て気色の悪い野郎なんだ。
「傘の柄にすりすりかよ……」
「そりゃあ、わっちだって、もっと貴重な物の方がいいと思ったよ。寧々子の汚いパンツとかさ。でも、おまえ、毎日洗濯するからなあ」
「な、な、な、なんだってえー!」
わたしはすばやくベンチから立ち上がって、ぶん、と回し蹴りを放った。しかしこの一撃は京子に逃げられ、空振りした。こいつめ、尻がでかいくせに逃げ足は速いんだよな。
「他人の下着を盗るんじゃなーい! 京子のバカ! バカ! バカ!」
わたしは口から火を吹いて暴れまくった。
「落ちつけ、落ちつけ、寧々子」
京子はわたしをなだめにかかった。
「冗談に決まってるじゃん。それに実際に持ってったわけじゃないし」
京子は、かっかしているわたしをハグし、わっちがそんなひどいこと、ホントにやるわけないだろ、と甘い声で囁いた。
いや、こいつがぎゅっと抱きしめてくる時は「ホントにやる」時だ。油断をしてはいけない。
「ああ、そうか。何で寧々子が平成12年の12月31日なんて言い出したのか分かったよ」
こいつは突然話を逸らそうとする。
「あれだろ」
と言って、公園のすぐ側にある交番を指さした。
どこの交番でもそうだけど、指名手配のポスターや、交通安全の呼び掛けが貼ってある。その中に、事件の情報提供を求める告知が貼ってあった。
京子は少年のようにかっこよくひらりとフェンスを飛び越え、交番の前に立った。わたしはお上品にちゃんと公園の出入り口から移動し、京子の横に並んだ。
ポスターに記されていることを簡単に述べると、
〇平成十二年十二月三十一日午後十一時頃、都内の宝石店に強盗が侵入し、店のオーナーを殺害し、宝石を奪って逃走
〇犯人はいまだ捕まっておらず、市民からの情報を求めている
ということだ。
京子は腕組みをし、ふーむ、と唸っている。こいつはいかんな、という感じに眉根を寄せている。
「どう思う、京子」
「……年末年始ぐらい店を休めばいいのに。働き過ぎは体に毒だよな」
そっちを気にしてるのか。自分は大掃除をさぼっているにもかかわらず。
「お店はお休みだったんだけどね。たまたまオーナーは店に出向いたのよ」
そう、声を掛けてきたのは交番から出て来た婦人警官だ。
実はわたしたちは、この婦警さんを知っている。施設にいる小学生が迷子になった時、送り届けてくれた人だ。普段はずぶとい京子はあの日、迷子になったのは自分のせいだと思い込み、妙にうろたえていたのを思い出した。
わたしは婦警さんに会釈をしたが、京子は明後日の方を向いている。何故目を合わせずにいるかというと、京子は自転車置き場で鍵の掛かってないチャリを見つけると、勝手に乗り回して遊んでいるからだ。
「お正月にハワイに行く予定だったんだけど、パスポートを店に置き忘れてね。それで忘れ物を取りに行ったら窃盗グループと出くわしてしまったらしいの。たぶん、都内を荒らし回ってるグループね。普段は留守を狙ってるのに、店の人間と遭遇してしまって、殺人にまで発展しちゃったのね」
「ふーん。宝石店ならセキュリティー・システムぐらいありそうっすけど」
京子はちょっぴり興味を持ったようだ。
「そこを巧みに解除してしまうの。プロの仕業ね」
婦警さんがわたしたちに説明したことはテレビのニュースでもやっていた。特別な情報というわけではない。高額な宝飾類が盗まれ、犯人は逃走し行方が分からない、ということは伝えられている。もちろん警察が女子高生に捜査の秘密情報を教える筈がないから、これ以上のことは知りようがない。ついでに言うと、高額というのがいくらだったか、数字に弱いわたしは忘れてしまった。数百万か、数千万だろう。
あなたたちは、何か目撃したなんてことはないわよね、と婦警さんは全く期待を込めずに尋ねた。当時わたしたちは中学一年生だから、夜遅くに都内まで出掛けることはまずない。
「何とかして捕まえたいものだわねえ」
と婦警さんはきりりと顔を引き締めて言う。けれど、殺人犯よりも、目の前の自転車窃盗犯を逮捕した方がいいとわたしは思うんだけど。
すると、今のところ前科ゼロ犯の京子は涼しい顔をして、
「このポスター、これでいいんすかねえ」
などと口にした。
「というと」
首を傾げる婦警さん。
「平成12年としか書いてないけど、西暦2000年という表記も入れといた方がいいんじゃないすか。ちょうど切りのいい数字だし、ミレニアムの時、こんなことをやってたな、と思い出すやつがいるかもしれない」
「ほう、なるほど」
婦警さんの表情は一段階、明るくなった。京子は更に続けた。
「それに、地図もあった方がいいんじゃないすか」
「地図?」
「略図でいいんすよ。事件現場の近くって、初詣で賑わうお寺や神社がありましたよね。現場と寺と神社が描かれた略図があれば、『そういえばこの時間、初詣に向かう途中だったよ』なんて人も出て来るでしょうし」
「そうすれば、中には不審人物を見た、という人が現れるかもしれないわね」
「役立つ情報があるかどうかは分からないっすよ。多少、確率が上がる、ていう程度ですけどね」
「いやいや、良いアイデアだと思うよ」
婦警さんはうむうむと頷いた。婦警さんの瞳は輝きを増した。
「これは上司に進言してみるかな……」
彼女は興奮気味に、鼻の孔を拡げて呟いた。
さて、婦警さんが感心したので、わたしたちは調子に乗り、帰り道では、事件について勝手なことを滔々と語り続けた。
閑散とした午後の住宅街はやわらかな陽射しに包まれて、赤いレンガの壁でさえ昼寝をしているかのようだ。若くて元気な靴音が、二人分だけ舗道に響いている。わたしたちが思い付くまま発した言葉は、初夏へと移ろうさわやかな空気の中で、ぽんぽんと自由に飛び交っている。
「被害者であるオーナーが、パスポートの忘れ物をした、というのは思い込みじゃないの」
とわたし。
「ほう、思い込みね」
と皮肉な顔の京子。
「忘れたんじゃなくて、誰かがこっそり隠したんだね。それを、忘れたと思い込んでオーナーが店に探しに行く。そして殺人犯が強盗に見せ掛けて犯行に及ぶ」
「パスポートを隠せるということは、身近な人間の仕業だね」
「身近な人間ならセキュリティーも解除できるね」
念のために言っておくと、わたしたちは、あくまでも「勝手な推理」で遊んでいるだけだからね。身近な人間は、警察も徹底的に調査するから、アリバイが有るか無いかはすぐバレる。あっさり捕まるね。わたしたちは空想ごっこで遊んでいるだけだよ。
勝手な推理は尚も続く。
「宝石は見つかってないらしいけど、身近な人間が犯人なら、実はトイレのタンクに隠してあるんだね」
と今度は京子が語る。
「タンク?」
「うむ。ブツをタンクに沈める。その上に重い板でできた蓋をする。タンクを覗き込んでもブツが見えないようにね」
「タンクと同じ色、同じ素材の板なら、ちょっと見では判らないね」
「そしてほとぼりがさめた頃に回収する」
「なるほど」
「ただ、この場合、トイレが詰まるおそれがあるね」
「えっ、またトイレ詰まりの話?」
わたしは口をへの字にゆがめる。
「タンクの中に何か入ってると、その分、タンクに貯まる水の量が減るんだよ。そうすると、一度に流れる水の量も減る。場合によっては、水量が足りなくて、便やペーパーがきちんと流れず、詰まりを起こすことがあるんだ。
うちの施設のトイレだってそうだよ。節水の為に、タンクの中にペットボトルを沈めてあるから、一度に流れる水量が減るわけね。大掃除の時、トイレが詰まったのもそれが原因だよ」
そうだったのか! やっと謎が解けた! いや、解けたといっても宝石店事件じゃなくて、施設のトイレ詰まりの方ね。おかしいと思ったんだよ。いつもと同じように掃除をした筈なのに、五年前は突然、詰まりを起こしたんだから。
うちの施設は何かというと、無駄遣いをやめなさい、節約をしなさいってうるさく言う。そりゃあ、節約は大事だよ。でも、行き過ぎはまずいよね。節水しようとして、結局トイレが詰まっちゃったんだから。
「あれっ、でも、何でそんなこと、京子が知ってんの?」
「5年前、わっちが瀕死の病で床に臥せっていた時――」
「仮病で学校を休んだ時ね」
「その時、施設のスタッフさんたちが節水の為にペットボトルをタンクに沈めたんだよ。そういうことをきちんと伝達しないからいけないんだな。トイレ詰まりの責任は施設のスタッフにあるな。
いや、もっとも、施設が『節約、節約』とくどくど言うのは、政治が児童養護施設をきちんと支援しないからだから、一番悪いのは政治家ってことになるな」
「いやいや、一番悪いのは大掃除をさぼった京子だと思うよ」
「えー、何でわっちなのさー」
「京子が掃除をさぼらなければ、トイレの節水だって伝えられたでしょうが」
「寧々子、わっちを悪者にしなくってもさあ……」
おまえ、時々そういう冷たいこと言うんだよな、と嘆いて京子はわたしの首に腕をまわし、不満顔をぐっと近付けて来た。鬱陶しくて歩きづらい。
午後の太陽はまだ高い位置にある。京子のシャンプーの匂いがする。前のよりいい香りのような気がする。おっと、いけない。こういうことに気付いちゃうから、京子と親友なのね、と周りから誤解されちゃうんだね。それに京子はおしゃれに関することをほめると単純に喜ぶから、シャンプーがどうとか、絶対黙ってよう。
そして、もう一つ。帰ったら念のため、下着の枚数を数えておこう。これは忘れないようにしなきゃ。おそらく下着が一、二枚無くなってても、京子なら「洗濯物を干した時、風で飛んだんじゃねえの」なんて言うだろうけどさ。あいつは自分の頭脳をそういうところに使うやつだからな。
腐れ縁とはいっても、京子のことを一番解っているのは結局わたしなんだよね。
最初のコメントを投稿しよう!