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念のため
「奥さんってどんな人?」
リビングに飾られた写真立てを手に取り聞いた。
「とろくて鈍感」
ウエディングドレスを着た小柄な女性と今目の前でワインを飲むタキシードを着た彼が世界一幸せだと言わんばかりに微笑んでいる。
「じゃあ、私が泊まっても気づかれないかもね」
「たぶんね。俺が散髪しても気づかないからな。でもあんまり触るなよ。いくら鈍感だっていっても女は勘が鋭いからな」
奥さんが旅行中、不倫をしている彼のマンションにやってきた。
キッチンのシンクはピカピカで水滴ひとつない。
とろくて鈍感なわりにはきちんとしていた。
寝室の部屋の真ん中には、ダブルベッドが鎮座していた。
間接照明が温かみのある空間を演出している。
ドレッサーの上には、高価な化粧品が品よく並んでいた。
旦那の金で友だちと旅行し、高価な化粧品を使って、良いご身分だこと。
お風呂上がりにこの高いスキンケア一式を使ってやる。
トイレ、浴室、和室……と、ひと通り見て回るとソファに座る彼にもたれかかった。
「早く離婚してよね」
「うん。もう少しかかるかな」
翌朝、朝食を食べながら彼は言った。
「これ食べたら帰ってね」
コーヒーが入ったマグカップを持つ手が止まった。
「何で? 奥さん、夜まで帰ってこないんでしょ?」
「そうだけど、もしかしたら帰りが早まるかもしれないだろ? 念のためだよ」
彼は、時計を見ながらコーヒーをのどに流し込んだ。
使った食器をシンクに運ぶと、彼は、「俺が洗う」と私から食器を奪った。
「おまえは、自分が使った食器を丁寧に拭いて棚に戻して。俺の食器は、水切りかごに入れる」
「分かってるよ。何ビビってんのよ。鈍感な奥さんなんだから、二組の食器が残されてても気づかないわよ」
「念のためだよ」
帰る準備をしていたら、彼はベッドにコロコロをかけていた。
「そんな必死に掃除しなくてもいいじゃない」
「念のため」
目を凝らし手を動かす彼の背中を見ながら、私は、自分の長い髪を一本つまんで抜いた。
そして、その髪をベッドの下にこっそり忍ばせた。
念のため……。
昼には自宅のアパートに帰宅した。
休日なのにやることがない。
午後をだらだらと過ごして、夕方、彼に連絡をしたら返信がなかった。
夜九時を過ぎた頃、部屋のチャイムが鳴った。
彼だと思って急いで扉を開けたら、そこには小柄な女性が立っていた。
彼のリビングで見た写真と同じ人物だった。
のどが固まり、声が出ない。
「忘れものですよ」
彼の奥さんは言いながら、私の顔の前につまんだ手を掲げた。
親指と人差し指の間から、一本の長い髪の毛が伸びていた。
押しつけるように迫ってきたので、私は自分の髪の毛を受け取るしかなかった。
それから、彼女はバッグから紙を取り出して私に差し出した。
「それから、こちらが請求書です」
「請求書?」
かすれた声で聞き返すと、彼女は早口でまくし立てた。
「化粧水が200ミリリットル入りで4千円。1リットル20円としまして、あなたは約5ミリリットルお使いになったので、化粧水代100円。美容液は、30ミリリットルで1万円なので、1リットル333円としまして、あなたは3ミリリットルお使いになったので、999円。クリームは……」
「もういいです。払います」
「そうですか。では、合計2、136円になります」
財布を取りに戻り、「お釣りはいりません」と5千円札を渡した。
「こちら、領収書です。念のため」
「いりません!」
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