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素直な気持ちでエピローグ
事務官室は、そりゃもう屍累々となってしまっていた。私が「お疲れ様です」と言いながら魔法薬を配り歩くと、皆すごい勢いで飲み干してから、バリバリと机に戻ってしまった。……早く仕事が終わって家に帰って寝られるといいんだけれど。この数日ずっと疲労回復の魔法薬を作り続けている方からしてみれば、これ以上元気を前借りし過ぎたら、体に負担が大き過ぎると思おうから。
私は事務官の皆さんに「お疲れ様です」と言ってから、気を取り直して歩いて行った。
王城の一室。王弟殿下の部屋。普段は使用人やご家族以外は誰も入らない部屋の扉をノックするのは緊張する。
私は自分の姿を振り返った。
今はすっかりと使い続けて型がついてしまった宮廷魔術師を現すローブ。その下のドレスは王城でも派手にならないよう、それでいて王城でそれを着て働いても悪目立ちしないよう、最新流行のドレスから型落ちしているものを、古着屋で買って着ている。さすがに王城で働く以上、洗えるドレスでなかったらばっちいから着られない。
髪型は邪魔にならないよう、王立学園に通っていた頃と同じく、栗色の髪を夜会巻きにまとめている。
……なにも変わらな過ぎてがっかりされるかもしれない。身長も体重も体型も、最後に会った頃となにも変わらないんだから。
私は息を吸って、吐いて、少し止めてから意を決してノックした。
「失礼します。メイベル女史から言われまして、疲労回復薬を持って参りました」
「……入ってくれ」
温度のない声。
懐かしくて、涙が目尻から出そうになるのを堪える。ここ職場。ここ彼の部屋。失礼。
私はそう思いながら「失礼します」ともう一度言いながら、扉を開いた。
彼の部屋はこざっぱりというか、王族の部屋にしてはびっくりするくらいに物がなかった。
壁を埋めている本棚はスカスカだ。かろうじて埋まっているスペースには、他国の文化や歴史の本が差し込まれ、世界地図が貼られている。
そして革張りのソファーにテーブルの応接間。そのソファーでくったりと横たわっているのが、久々に見たクリストハルト様だった。
疲労困憊なんだろうけれど、その色香はぞっとするものだった。
最後に見たときより伸びた銀色の前髪が額に貼り付き、ジャケットやシャツのボタンを外して鎖骨を露わにしている。少しだけ捲り上げた腕の線がゴツゴツとしていて、これが二年の月日かと、思わず凝視してしまった。
くったりとしたまま、クリストハルト様がジィーッと私を見上げた。
「……メイベル女史に、魔法薬を頼んだのだけれど」
「はい。私もメイベル先生に頼まれたので持ってきました」
「……イルザ?」
「はい」
よかった。もう私のことは記憶の彼方にゴートゥーしたのかと思っていたけど、かろうじて踏みとどまっていてくれたらしい。
私はほっとひと息つきながら、彼に魔法薬の入った小瓶を差し出した。
「魔法薬ですよ。ただ一番の休息は、きちんと眠ることです……外交行脚、お疲れ様です」
「……イルザ。その薬、私にちょうだい?」
「ええっと。どうぞ?」
私が小瓶を差し出しても、なぜかクリストハルト様はぷいっとそっぽを向いてしまう。いやいや、飲んでくれないと困りますよ。
私は「あのう……お薬……」とおずおずと言うと、クリストハルト様が拗ねたように言う。
「……私、仕事で本当に疲れていたんだ」
「はい、存じております。外国にずっと飛び回っていましたしね」
「兄上や義姉上も、子作りの時間があるし、国内の平定をしなければいけなかったから、外交は専ら私の仕事だった……早く国に帰りたいから、根を上げる暇もなかった……」
「はい、本当にお疲れ様です」
「……君はいつも、私にだけ言わせようとするね? 今は誰もいないし、ここは私の私室なのに」
それに私はなんと答えるべきか迷う。
……ええっと、これはもしかしなくっても。私はおずおずと魔法薬の小瓶の蓋を開けると、そのまま自分の口の中に入れた。
その途端に、クリストハルト様にソファーから首根っこを掴まれて、そのまま抑えられてしまった。口が無理矢理、下からこじ開けられる。
……私の口の中身を全部クリストハルト様の中に流し込んでもなお、逃がしてくれず、こちらが酸欠になる寸前まで思いっきり唇を吸われてしまった。
チュポン。と音がして唇を離したのはどちらからなのか、私にはわからなかった。
「……あああああああの、ですね。クリストハルト様。私、宮廷魔術師。まだ偉くもなんともない、入って二年目のペーペーです。クリストハルト様は王族。身分とか高いです。ペーペーが王族に自分から薬飲んで迫るのって、さすがに難易度高くありません? それはさすがに痴女ではありませんか?」
「そうかな? ふたりっきりだけれど」
「ふ、ふたりだからって、できますか!」
したけどね! しろって無言で圧力かけられたからしたけどね! というか惚れた弱みがなかったらそもそもそんなんしないわ! ここが職場で王城で、もしうっかりとお掃除の人が来ようものなら、不埒な痴女ということで首と胴がお別れしてたからね! もう、この人ってば本当に本当に……!
でもなあ……たしかに私、本当に久し振り過ぎて、クリストハルト様になにを言えばいいのか、再会した途端に満足してしまって、言わないといけなかったこととか、言いたかったこととかが飛んでしまって、言葉が見つからない。
私が口をもごもごとさせている中、クリストハルト様はようやくのそりとソファーから起き上がると、ソファーの空いたスペースをポンポンと叩きはじめた。
「ええっと……」
「座って」
「あ、はい……失礼します……?」
少しだけ距離を空けて座ろうとしたものの、クリストハルト様がすぐに寄ってきて、結局は私たちはくっついて座ることとなってしまった。
「それで、君は私に言わないといけないことがあったんじゃないかな?」
「う……そうなんですけどね。ただ、未だに私は言っていいのかわかりませんよ?」
「君から言葉を賜るために、私は四年我慢したけれど」
「ううう……」
……そうなんだ。
卒業までは、こちらもスカウト枠とは言えども王城勤めの宮廷魔術師になるんだからと、ひたすら勉強しっぱなしで恋愛にリソースを割けなかった。卒業してからは、ひたすら仕事に慣れるためと言い訳していた。
クリストハルト様も忙しかったからとはいえども、さすがに待たせ過ぎた。
ただ、私はクリストハルト様の気持ちを既に知っている。彼の中で私があまりにも美化されてしまっているような気がするから、それを丸々受け入れてしまってもいいのかと考えあぐねている。
「……クリストハルト様、私」
「うん」
「私とあなたの『好き』に、温度差があったりしないでしょうか?」
「……うん?」
「私、ずぅーっとクリストハルト様が好きです。多分最初はミーハーでファンで、その気持ちは恋には程遠い薄っぺらいもんだったと思いますけど。あなたを好きにならなかったら、ここまで頑張ろうとも思わなかったんですよ」
王都出身とそうでないのとでは、悪気がないんだろうなと頭では納得していても、どこかで上から目線で見られるなあという、チクチクした思いが付きまとうことがある。もうやだ、自領に帰りたい。お兄様だったら私のこととやかく言わないだろうと思うときだってある。でも、結局は帰らずにここで頑張ってこられたのも、クリストハルト様が好きだという気持ちからだった。
ただ、私は本当に「好き」だけで完結してしまっていて、そこからどうなりたいのかがいまいちわからないままなのだ。
最初は本当に遠目で見ているだけで満足していて、ファンクラブメンバーと一緒にキャッキャしていればそれで充分幸せだった。
惚れ薬騒動のときに、びっくりするくらいに感情をぶつけられて、逃げても逃げても追いかけられて、それは困った。ただ。今は既に、それは全部本心から来るものだったと知っている。
あれを全部受け入れなかったら、私はここまで頑張れなかったのに、彼を受け入れる勇気だけが足りていない。どうしても、「本当に私でよかったの?」がついて回る。
どれだけ周りから「大丈夫」と太鼓判を押されても、クリストハルト様の傍にいていいのかが、未だに自信がない。
その中で、不意にクリストハルト様から手を掴まれた。長くて綺麗な手で、指の一本一本が私のものよりも大きい気がする。
「……クリストハルト様?」
「これは私が精一杯過ぎて、君の気持ちに気付かなくって、悪かった」
「いや、むしろ四年も待たせて、こんな返事でよかったのかなと、そればかり」
「私は君が王都にいてくれたら、それで安心できるって思ったんだよ。君が帰ってしまったら、そう簡単には会えないから。いくら早馬を使っても、最短でも二日は連絡が遅れてしまうから。君を見失って君がわからなくなるのが怖かった」
「それは……」
「私は君が愛しい。できればずっと傍にいて欲しいし、君に隣に立っていて欲しい……ただ、君が努力して培ったもの全てを奪っていいものか、未だに考え込んでいる」
……そうなんだよなあ。
私はまだ全然偉くもなんともない宮廷魔術師なんだから、ただ好きってだけで結婚はできない。王都の政治闘争は、やっと王族派と議会派が硬直状態に持ち込めたからこそ、互いに緊張感を持って政治に励んでいるけれど、少しバランスを崩したら、またも王城が呪いと毒で汚染される。陛下への代替わりの際の騒動を知っている人間は、少し失敗したらどれだけの死傷者が出たかわかっているからこそ、自分勝手な行動は取れない。
私は「んーんーんーんー……」と腕を組んで、ふと気付いた。
「……私とドミニクさんが兄妹になるっていうのはどうでしょうか?」
「うん?」
「ドミニクさん家は代々近衛騎士を輩出している家柄ですから、たしかに上級機族とは言えませんけれど、それなりに偉いと思います。それなら……」
前々からアウレリア様が「うちの親戚になるのは?」とはおっしゃってくれていたものの、アウレリア様は現在議会派からものすっごい勢いで嫌われているから、下手に公爵家の遠縁に養子縁組しようものならば、彼女にいらんやっかみが飛ぶと思ったら怖くて辞退させてもらっていた。でも、そういう政治闘争には、騎士の家系は関わっていない。
……いけなくないか?
私の思いつきに、クリストハルト様は思いっきり私を抱き締めた。苦しい苦しいいい匂い好きでも苦しい。私がパタパタしていたら、クリストハルト様はやっと私を開放した末に立ち上がった。
「……ドミニクに打診してみるよ。これで丸く治まるかもしれないね」
「アハハハハハハ……私、また嫌われるかもしれません」
「彼は嫌ってはいないよ。ただ、生真面目が過ぎるだけさ」
****
久々に見かけたドミニクさんは、私の記憶以上に筋肉隆々な上に、横も縦も、気のせいか大きくなっている気がした。真っ白な正装を着てもなお、逞しい胸板が目立つ気がする。
私とクリストハルト様の打診に、最初ものすっごく渋い顔をしたものの、ようやっと息を吐いた。
「……たしかに、我が家ならば議会派を刺激することなく、殿下とイルザ嬢の婚姻を進めることができるでしょう」
「ありがとう、ドミニク」
「あ、ありがとうございます」
こちらの礼に、ドミニクさんは「イルザ嬢」とじっと私を見た。なんだろう。「うちの殿下もどうしてこのアホを選んだのか」とか言われるのかな。私だって四年考えた末の結論だったんだけれど。
そう思って見返していたら、やがて溜息をついた。
「……長かったな。せせこましいあなたのことだ、自分はふさわしくないと思って大人しく自領に引っ込むかと思っていたが、まさかこのまま宮廷魔術師として王城に滞在することになるとは思ってもいなかった。これ以上は俺もとやかくは言うまい」
「……もしかして、応援してくれてたんですか?」
「勘違いするな。議会派を刺激することない背景で、王族派に寄り過ぎていなくてちょうどいい女性で、なによりも殿下の気を引いた女性があなたしかいなかっただけだ」
ですよねー。ドミニクさんは基本的にクリストハルト様が一番ですもんねー。まあ最近はシャルロッテさんとも清い交際しているようですけどー。私は聞いてるけど知らないふりしてあげてますけどー。
私が目を剥いているのに、ドミニクさんは顔を真っ赤にして「とっ、とにかくっ!」と声を荒げた。
「王立学園時代は多少は目を瞑ったが、王族に入る以上は、阿呆な真似は慎むように!」
「しませんよ!? さすがに私も王立学園のときよりは考えてますけど!?」
「知っている。そのせせこましさ、ゆめゆめ忘れないように」
まるでどこぞの鍛冶屋の頑固親父みたいなことを言われて、話は終わった。
なんだかすっきりし、私とクリストハルト様は王城の中庭に出た。この辺りは王城の職務で疲れた人たちが休んでいるような憩いの場だ。
「なんだか、いろいろありましたね」
「そうか? 私はこれからだと思っているけれど」
「そうかもしれませんけどね」
思えば遠くへ来たもんだ。
まさか下級貴族の娘がそのまんま王都で働くことになるとは思ってもいなかったし、うっかりとつくった薬が原因で、こうしてクリストハルト様と一緒にいられることになるとは思ってもいなかった。
勘違いは持続するともう、それは勘違いではなくなるらしい。
それを人は「恋」と呼ぶ。
<了>
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