美しい夢

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「ちゃんと話せたのか」 「――え?」  短い幻想から醒めて、僕は彼を見上げた。 「……あ、はい」  そうか、と言うと、彼はまた少し黙った。僕の話の続きを待ってくれているのかもしれない。けれど僕にはもうそれ以上何も話せることはなく、代わりに最後の望みを口にした。 「あのカード、あの、あなたが貸してくれた」 「ああ」 「もし、……もし、ほんとうにもう要らないのなら、僕にくれませんか」 「――」 「……すみません」  やはり図々しかっただろうか。すぐに後悔し、項垂れると、スッと目の前にカードが差し出された。ハッとして顔をあげる。 「――いいんですか」  嬉しくて声がうわずってしまうのを、彼はなにか痛ましいような目で見つめた。 「……危なっかしいヤツだな」 「え、」 「もう、転ぶなよ。前を見て歩け」  そう言ってカードでぽん、と僕の頭をたたくと、指輪をしたその手で、僕のシャツの胸ポケットにそれを滑り込ませ、呆気なく身を翻した。僕は彼のその言葉の意味を考えながら、彼の濃い藍色のシャツが華麗に踊るのを、ぼんやりと見つめていた。もちろん、僕はそれ以上のことを彼との間に望んでいた訳ではない。ただ、短く儚い夢が、それに相応しい呆気なさで終わった、それだけのことだと思った。それで全て、納得できるはずだった。   なのに何故、僕はその時、去ってゆく彼の後ろ姿から、目を離すことが出来なかったのだろう。あの電話を切ろうとした時よりも、もっと深い悲しみが、僕の胸にせり上がってきていた。  彼の背の向こうに、突然降り出した雨に煙る深い緑色の風景が、慰めもなく広がっている。どうして、僕は独りなのだろう。そんないつのまにか問うことをやめたはずの思いが、何故その時に限って、狂おしく僕を支配していたのか。   どんな表情をして、彼の背を見つめていたのか判らない。だが思いがけず振り返った彼は、立ち尽くす僕の姿を見て、一瞬その口許に言いようのない苦い笑みを浮かべた。かすかに首を傾け、しばしその場で佇んだあと、彼はなぜか再び僕のもとに歩み寄ってきた。   僕はその時、逃げるべきだったのかもしれない。その時を逃せばもう、僕はこの恋から一生逃げられないような気がした。  けれどさっき彼が僕の腕を掴んだ時、その力強い腕に導かれ、その温もりに触れた時、僕ははっきりと自分の命が歓喜するのを感じてしまった。  だから僕はそこを動くことが出来なかった。  悲しいと分かっていても読んでしまう物語のように、救いがないと知りながら観てしまう映画のように、美しい夢はいつも残酷なほどの眩しさで、僕を惑わせ、生かし続ける。 「――傘、ないのか」   彼は呆れたような口調で訊いた。   僕はその深く、心地よい声に甘美な悲しみを覚えながら、小さく、ハイと頷いて、その美しい夢の続きを受け入れた。 【了】
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