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おれは母ちゃんの先にたって歩きだした。とまったお日さんの下で海が揺れてて、ギラギラひかる。潮のにおいが島の中にたまってる。母ちゃんが眉毛をくっとよせて心配そうにいう。
「ほんに、おかしなことやけ」
「島、黄色くなりそうや。はよう悪さした人見つけんと」
さっきはこのままでもいいって思ったけど、やっぱり取り消しだ。おれは目をするどくしてきょろきょろしながら進む。いつもの癖で浜にいこうとしたら、母ちゃんがおれの肩をとめた。しゃがんで顔をあわせる。
「思い出したよ。健太は、いたずらしたときあちこち隠れて、見つかるまで出てこなかったねえ」
こんなときなのに母ちゃんは少し笑ってる。おれはもぞもぞする。
「おれ、そんなやった?」
「そうよ。掟やぶりも、ひどいいたずらやがね」
「じゃあそいつ、どっか隠れとる!」
「もし健太ならどこにいきよう?」
おれはじっと考えて思いついた。
「あっち、岩場や」
おれは浜と反対の方にいそいだ。岩場は、島の崖と海がぶつかるところだ。崖の下のところに、海にけずられてあいた穴がある。おれは入り口をちょっと見たことしかないけど、隠れるには最高の場所だと思う。穴の前まではでかい岩がごろごろして、流れこむ潮がはやくなってて危ない。おれはまじめな顔で母ちゃんの手をひいて、海からつきでた岩をわたってく。
「母ちゃん、気をつけよ。足痛くないか」
「大丈夫、健太も…… あれ、いまなにか聴こえよう?」
「えっ」
岩の上で耳をすます。そしたら波の中に気味悪い風みたいな音がまざってて、体がビクッてした。母ちゃんがにぎった手をぎゅっとする。
「あそこやね」
黒っぽい崖にぽっかりあいた横穴。おれたちは最後の岩を飛びこえて、水がひたる穴にはいった。穴は思ったより長かった。光がとどかなくって、進むとどんどん薄暗くなる。ぼわぼわしてた変な風の音は、だんだん「アーァ……」って甲高い声に変わる。化けものだったら母ちゃんを守らないと。木の枝でいいから持ってくればよかった。
いつのまにかへっぴり腰になって、母ちゃんに手をひかれて歩いてた。母ちゃんが急に立ちどまる。なにか見つけた! おれはどきどきしながらそっと暗がりをのぞきこんだ。
大きな動物。親子や。
そう思ったとき、母ちゃんがそれにむかって話しかけた。
「わかるよ。わかるがね、してはならんこと」
綿みたいにやさしい声だ。
おれの怖い気持ちは消えて、母ちゃんのとなりに並ぶ。岩の奥で体を丸めてたのは、きれいな姉やだった。目をひらいて震えて、おくるみにつつんだ赤ちゃんを抱いてる。まんまるいほっぺであぶあぶいってる赤ちゃんを見て、おれは気がぬけて笑ってしまった。
「なんや、さっきの音お前か! すっかりおどかされたぞ」
「この子の泣く声が、穴とおって大きうなったとね。ほらあんた、もう隠れきれんよ」
母ちゃんが、岩のへりにおいてあった竹の筒を取りあげる。飲み水がはいってるみたいだ。姉やが声をあげて泣きだした。
「私、この子といたいんです。ここにいさせてください」
「あんたが残ろうとすると、お日さんが沈まんの。そしたらあたしらも帰れん。もういくよ」
母ちゃんがきっぱりいう。おれをしかるときと同じだ。姉やはしょんぼりしてうずくまったけど、しばらくするとがっくりうなずいた。母ちゃんがてきぱき動く。
「坊やをかして。健太、姉やの手をひいてあげ」
「わかった。姉ちゃん、いっしょに戻ろ」
「……あなた、健太くんというの」
「うん」
姉やが泣きながら笑う。
「いい子ね。私の子も、男の子」
おれはなんていったらいいがわからないし、姉やがきれいで恥ずかしいから、さっさと手をつないだ。みんなでやぶの林に戻ってきて岩場が見えなくなると、やっとほっとした。頭の上の空が夕焼けになってる。母ちゃんが姉やにこどもをわたした。
「さあ、お日さんも帰りよる。あんた、浜まで抱いてやり」
おれたちはあわてて浜についた。お日さんは海に落ちてく。あたりが赤く染まってる。もう、きょうとお別れだ。母ちゃんが姉やの子を抱きとって、夕焼け色の顔でおれを見た。
「健太。この坊や、家でよろしくみてくれる?」
「うん。おれの弟分や」
「おじいとおばあにちゃんと話すんよ。名前はなんていうかね」
姉やがぼうっとした顔で答える。
「よしお。吉祥の祥に、夫」
「少し難しい字やけ。健太、おばあたちにキッショウノオットいうたらわかるからね。それと、あんた、ここの砂に書いとって」
「はい」
姉やは細い指をたてて大きく名前を書く。書き終わるとひとつぶ涙をこぼして、それきりなにもいわなかった。おれは母ちゃんから祥夫をわたされる。赤ちゃんってのは、やわらかくてほわっとしたにおいがして、ずっしりくる。祥夫がきょとんとした目でおれを見あげる。「兄ちゃん、持てるか?」っていうふうに。おれはかっこつけたくて両足ふんばった。
母ちゃんがおれの頭をなでた。
「よろしくね。姉やは心配いらんよ、お母がつれて帰るから」
「うん……」
「それじゃあね、健太。またみぎわの日にくるよ。待っとってね」
「うん。またな」
それだけしかいえなかった。母ちゃんは姉やをささえて海にはいってく。足が波にまかれて見えなくなる。母ちゃんどうし、もう仲よしみたいや。どんなこと話してるんかなあ。
「あんた、本土の人がね」
「…………」
「こっそり子どもを島に送って。顔見たらやっぱり離れられんとなりよう?」
「はい……」
「あのね、水を持ってきとったけど、みぎわの島で飲んだり食べたりしたらあかんのよ。あっちとこっちがまざってしまうから。汀は水と陸がふれよう、でもひとつには溶かせん」
「すみません」
「あやまらんでええ。誰もあんたを責めんよ。あたしも、あの子亡くしてもう十六年になる」
「……健太くん、おいくつで」
「九つになった年の、冷えこむ秋やった。はやり病でもなく風邪ひきこじらせてね。なでに母親が気をつけてやれんかったかといつまでも申し訳なか、可哀相で可哀相で、ほんにいますぐかわってやりたい。命だってなんだって、あげられるならいくらでもあげるのにねえ」
「私、死んだらあの子に会えると思ったんです。でも、そういうことをした人は行き先がちがうんだって聞いて、きょうを待ちました」
「とどまってよかった。よく堪えたね」
「お母さんも、みぎわの日を待ってらしたんですね」
「ああ、おんなじ大きさの着物をいくつもぬいながら。そのあいだに膝も腰もガタがきて、あたしばっかり齡とっていく。あの子はあの時のまんま。やんちゃくれの健太……」
「お母さん」
「浜を見たらいけんよ」
「健太くん、まだこっちを見ています」
「…………」
「祥夫をしっかり抱いてくれてる。ふたり、あんなに小さなふたりですよ。母親がそばにいないと」
「いけん! 帰ろう。帰らんとね。あたしらは生きとる。生きていかんとならんのよ」
波の中で、母ちゃんの背中が丸まった。
どうしたんだろう。姉やをささえてた母ちゃんが、急に小さく弱く見えた。ひとつにできないたくさんの気持ちがいっぺんに身体を駆けあがる。おれは大きく息を吸った。
「母ちゃん!」
海に溶けてく影が一瞬立ちどまった。
けど引きかえしたりしないで、前に進みだす。おれはさけぶ。のどに塩辛い味を感じる。
「母ちゃん、ごめん。おれ、どうしてなかなか大きくなれんで、母ちゃんにつらく思わせとる。おれ次はもっと立派になっとるが。約束や。それにな、それに……」
今度こそこんなふうに泣いたりしないんだ。
息がきれた。かえってくるのは波だけだ。お日さんが消えて、海は黒いかたまりになっていく。みぎわの日は終わりだ。
おれは祥夫ごと手を持ちあげて、ぬれた顔をこぶしでぬぐった。自分の母ちゃんを見送った祥夫は、「はい、おつかれさん」みたいにすやすや眠ってた。ちゃっかりしたやつだ。目から流れる水はとまらないけど、おれは笑った。さざなみにあわせて祥夫を揺すって、ぷっくりしたほっぺたをつつく。
「おい祥夫、お前も大きうなれよ。歩けるようなったら、おれが島じゅう見せたる」
そろそろ腕が限界だ。戻ろう、おじいとおばあのとこに。おれはもういっぺん顔をふいて、祥夫を抱きなおして、家にむかって歩きだす。草履で砂を踏んでいく。そいつがじゃりじゃり歌うから、さびしい気持ちがちょっとずつぬくまった。背中の方で海も歌ってる。そうだ、ここはやさしい島、みぎわの島だ。おれも母ちゃんがきかせてくれた子守唄を思い出して、元気いっぱいに歌って帰ろう。
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