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 7月中に連絡がなく8月になった。私の心はRamonより騒然として落ち着きがなかった。彼の渡米の日を、判決を待つ被告のように、深刻に神妙に待った。もし面接に落ちてニューヨークに行かれなくなったら、彼との関係が続けられるかもしれない。彼の愛の遷移に気付きながら、まだ僅かな望みを持ち続ける卑しい自分を恥じてもいる。 「Anna!!やったよ!!決まったよ!」  開店の準備をしていた私は、何のことだかはっきりわかっているのに、寝ぼけた返事をした。 「どうしたの?」 「受かったんだよ。オファーが来たんだ!ニューヨークのレストランを任されるんだよ!!」  携帯を片手に踊り出しそうな彼の興奮は、私の精気をうなだれさせたが、私は心底喜んでいるように答えた。 「おめでとう!すごいわ。これがあなたの実力よ。夢が叶ったじゃない。」  Ramonがいなくなる。  目を背けてきた恐ろしい現実が立ち現れた。この瞬間に二人の間が断裂する音がする。 「今月の中頃までにはニューヨークに行かなきゃ。あと10日もないよ。どうしよう。」 「何をどうするの?」 「後任のシェフとか大丈夫なの?」 「心配しないで。あとのことは何とかするから、あなたは自分の事だけ考えて。」  Ramonは無邪気に私に抱きついて額にキスをする。彼に私の瞳の奥は見えない。彼の目にはもうニューヨークしか映っていない。  Ramonが新しい人生の準備を始めるように、私も自分の人生の終わりを準備し始めた。彼の変容が、私を現実に押し出す。私の仕事は、当座Edithにお願いすることにした。私がどうしてもしばらく日本に行かなければならないと説明すると、Jean-LucはEdithに話しを通してくれた。私の体力は限界にきていた。Ramonへの愛だろうか。気力だけが体を支えている。彼が旅立つまでは持ち堪えられるだろう。あと一週間もない。彼との終わりを味わう辛さを、忙しさで中和させる。  Jean-LucとEdithの家は丘の上にあり、港を見下ろしている。玄関先も家の周りも、手入れされた植物が家を飾り立てている。Edithが隅々まで整頓している姿が浮かぶ。Edithが玄関のドアを開けて優しく迎え入れてくれる。 「こんにちは。素敵なお家ね。Jean-Lucは?」  部屋の壁は、娘二人の誕生から高校の卒業、結婚式の写真で埋め尽くされている。暖炉の上には孫の同じような写真が、二重にも三重にもなって置かれている。 「友達と釣りに行ったわ。朝早くから。」  花柄のソファに腰を下ろしながら、なんとなく居心地悪さを感じて、私は早速本題に入った。 「彼に先にお願しておいたんだけど・・」 「ええ、聞いているわ。少し日本に帰るんでしょ?」  暖かい紅茶とクッキーを私の前に置いて、Edithもソファに腰かけた。 「そうなの、その間、店を引き継いでほしいのよ。」 「私なんかでできるかしら。もう十年以上仕事していないんだから。」 「大丈夫よ。Jean-Lucもいるし、慣れるまで私もいるから。まだ数か月あるし。」 「そうねぇ、少しの間なら・・大丈夫かしら。」 「そうよ、たまに気分転換と思って働くのもいいじゃない。」  身勝手さを自覚しながらも、私は無責任に仕事を押し付ける。 「Jean-Lucもお世話になっているし・・私にできることならお手伝いするわ。」 「ありがとう!助かるわ。できるだけ早く来てくれる。引継ぎを始めたいから。」 「わかった。大丈夫よ、明日からでも行かれるから。」  私は一つ荷物を下ろすことができて、安堵の溜息をついた。 「そうそう、次女が今度彼氏を家に連れてくるのよ。どうも結婚したいみたいで・・・」  私は彼女の話の抑揚に合わせながら、驚いたり喜んだりする顔を作ってみた。あの騒ぎのことには一切触れず、彼女は平均的な一般家庭の幸せを見せてくれた。それが彼女の強さなのか。強くなければ幸せは掴めないのかもしれない。 「楽しみね。またお孫さんができたら、大家族じゃない。」  与えられることのなかった幸せの中で、私は呼吸が難しくなってきた。ここでは酸素が足りない。私の息は許されない家だ。早々に腰を上げ、私は玄関に向かった。 「あら、急いでいるの?」 「この後行くところがあって。じゃあまた後で連絡するわ。ありがとう。」  Edithは頬に軽くキスをしてくれて、私は家を出た。  私には錨がない。だから落ち着かない。錨は愛する人。人は愛する人の所に留まる。やっと見つけたと思っていた錨は、粉々になって消えてしまった。もともと幻想だったのかもしれない。消えかけの錨に私はまだ縋りついて浮遊する。  外の空気を肺いっぱい吸う。肺の底が痛く、血が凍り付いてしまっているように感じる。痛くても、まだなんとか呼吸ができる。
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