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 マルセイユの駅がなぜかあまり好きになれない。改札を出て、町を垣間見ても、その先に行ってみたいと思わない。無表情のまま、私はバス乗り場に歩き出す。  Cassisに走るバスから見える色のない町は、徐々に光に彩られて車窓は明るくなる。初夏の日差しは、緑を植物から生き物に変える。  露出した肩がバスの席に触れる度に、汗ばんだ肌を煩わしく感じる。まだ空調を使っていないのか、満席ではないバスの中でも湿気が纏わりついてくる。襟足にへばりついた髪を掻き上げて一つにまとめる。首筋に髪がないだけで少し涼しい。  髪をピンでとめた途端にCassisに着き、慌てて下車する。バス停は小高い丘の上にある。バスの荷台からスーツケースを出してもらい、引きずって歩く。坂道を港に向かって下りていく。ミュールの隙間が歩く度に汗で足にくっついてくる。  この町での暮らしが始まった。不快感はやがて眼下に現れた海の光にかき消される。海の表面は太陽の光で溶けることなく輝き続ける。初めてここに来た時を思い出す。  坂を下りきらない丘の中腹にRestaurant Angelaがある。私が任された店だ。本当はGiorgioが継いでいるはずだった。息子なのだから当然だ。エントランスや敷地を囲う土塀に巻き付いた葡萄の蔓には、溢れかえるように緑の葉が茂っている。数か月前に来た時は一枚の葉もつけていなかったのに。  イタリアでGiorgioの葬式が終わった後、私はAngelaに呼ばれてこのレストランを訪れた。長く続く塀の一か所に設えられたエントランスのドアをくぐると、フランスの片田舎によくある石造りの家が、くぬぎの大木の奥に佇む。家の前には、広い庭があり、テーブルが点在して客を待っている。4、50席はあるだろうか。昼間は木漏れ日が白いテーブルクロスに踊って穏やかで暖かい。  Angelaは夫を十年前に亡くしていた。その上、息子にも先立たれて、一人店の席に座る彼女は、前より小さくなっていた。私の姿に気づくと、Angelaは寂しい笑顔を作って歓迎してくれた。抱きしめてくれる体は確かに小さくなっている。 「ありがとう、来てくれて。」  私もただ寂しく微笑んだ。葬式の時の段取りのことや、皆が帰った後のことを、私たちは取り留めなく話した。しかしAngelaが私を呼んだのは、そんなどうでもよい話をするためではなかった。 「Annaお願いがあるんだよ。」 「何?何でも言って。」  私はGiorgioと十年近く付き合っていた。日本で知り合った時、彼は30、私は38だった。経済的にも自立し、結婚も諦め、恋愛は人生の楽しみでしかなかった私に、イタリア人の年下の彼は、真剣に付き合わずに済む丁度よい相手だった。離れられなくなるとは思いもしなかった。  日本で五年一緒にいてもまだ足りなくて、彼がイタリアに帰る時に一緒についてきた。彼と一緒にいたかった。イタリアに渡って彼の実家の世話になった。父親がフランスのCassisでレストランを経営しているので、イタリアの実家にはほとんどいつも誰もいなかった。実際には父親はすでに亡くなっていて、母親のAngelaがレストランを切り盛りしていた。  しばらくしてGiorgioはそのレストランを継ぐために、フランス、Cassisに移ることになった。人生の流れはうまくできていて、その頃私は、彼の浮気に辟易して当たり散らしていた。彼は私を絶対に手放さずに、他所の女と上手に遊ぶ。私は嫉妬の苦痛に耐えかねていた。疲弊しきった心は、彼の元を去る道しか見つけられなくなっていた。彼がCassisに引っ越す時に、私も彼から去ることにした。もうついていく気力はなかった。Angelaはその後も私の心配をしてくれて、私は彼女のお陰でイタリアに留まることになった。  Giorgioは別れた後も、屈託なく私に連絡を続けてきていた。嫉妬の情も味わい尽くし、物理的にも彼から離れた私にとって、彼への愛情は男女の愛ではなく、兄弟のような、家族のような愛情に変わっていた。それからまた私は再び、男と一対一で付き合うことができなくなった。恋愛を、次から次の花に飛んでいく蝶のように楽しむだけだ。瞬間の時は愛せても、人を愛する力はなくなっていた。
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