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17
「マスター、ボトルここに置いておきますよ」
サ店に戻ると、前島さんや店内にいた客は既に引き上げていた。こういう時間をアイドルタイムと言うらしい。
例のごとく森本さんが銀縁眼鏡をカチッと上げれば、軽い蔑みと共に俺の知らない情報が早口でもたらされるのである。
厨房から水の流れる音がする。須崎さんは洗い物中のようだ。俺は洗いやすいように持って帰ってきたボトルの蓋を開けて、カウンターの上に置いた。
「あ、大川君。お帰りなさい」
手を拭きながら須崎さんが厨房から顔を覗かせた。空のボトルを見ると満足げな表情を浮かべる。
この一年で、須崎さんは俺のことをさん呼びから君呼びに変えていた。俺は変わらずにマスター、と呼んでいる。
「マスターのおかげで福留さん、ようやく福祉課の提案を呑んでくれましたよ」
ボトルを厨房へ下げに行った須崎さんにそう呼び掛けると、少しして須崎さんは赤い顔をして戻って来た。褒められたり感謝されたりするとどう返して良いか分からないのは相変わらずらしい。
「僕は何もしていませんよ」
返答に困った様子の須崎さんは、どことなくつっけんどんな口調でぼそりと呟いた。年上の、しかも有名シェフだったという人に対して失礼な言い方かもしれないが、可愛らしいというかピュアというか。
須崎さんがカウンターの向こうから返してくれる言葉は、あれからも何度か俺の仕事を助けてくれた。団地の住人やこれからここに住もうとする人たちに感謝の言葉を貰えたのも、須崎さんのおかげだと思う。
職場での俺の評価も上がった。今回やっと「福留さん事件簿」が解決したことで、俺も肩の荷が下りた気分……早くこういう地味な仕事とはおさらばしたいと思っていた筈なのに。
スタンドにロートをセットしながら須崎さんは言う。
「団地の人たちに教わったんです。助けてくれる人に素直にお願いすればいいんだ、と。思ったことは言ってみよう、と。嫌われるかそうでないかは、それから判断しても遅くないのかなと」
まだなかなか実行出来ていませんけどね、須崎さんは作業の手を休めずに、そう言ってまた照れ笑いをした。
俺の好きな香りが漂ってくる。
「こう思われたらどうしよう、これを言ったら嫌われるんじゃないかと気にしていても無意味なことなんだと、大川君からも教わりました」
「え、俺ですか?」
「はい。大川君は他人にどう思われるかを考えていないので、行動がとても真っ直ぐで羨ましいですよ」
「……それ、褒めてます?」
「褒めてます」
はい、どうぞ。アロマと共に今日三杯目のコーヒーが俺の前に出された。
そうか。俺、この団地やここに住む人たちとの時間が楽しいんだ。柘植の木団地再生課の仕事、もう少し本気出して続けてみるか。そんな気持ちが湧いた。人生で初めてかもしれない。
ふと見ると、須崎さんはいつもと変わらない様子でサイフォンの手入れをしている。
俺はお気に入りのコーヒーをゆっくりと味わった。
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