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 評判が一人歩きをする中、ビストロの同僚と上手くやっていけずに疲れ切った須崎さんはシェフを辞めた。  辞めてからの三年間は、貯金を切り崩したり友人のレストランを手伝ったりして生活していたらしい。  ある時、たまたま柘植の木団地チャレンジプロジェクトの広告を見て、これならと思い立ったそうだ。 「一人でやればいいんだ、と。それなら誰に気を使うこともないし、他人の気持ちに振り回されることもない。古いものと新しいものが入り混じったこの環境も良いと思いました」 「入り混じる?」 「はい。もう目立つことはほとほと嫌になっていましたから、街に溶け込むように生きられればと。古いものが新しく再生されていく波に身を任せてみようと思ったんです」  そうか、須崎さんがここへやって来るまでにそんなことがあったのか。 「福留さんにもそんな空気を感じました。もしかしたら僕と同じように何かから逃げて、ここに溶け込んでしまおうとしているんじゃないかと。目立たず生きて行きたいんじゃないかと」 「あ、そういう……」 「はい」  須崎さんの過去のしがらみを聞いて、なるほどと納得した。二人とも、この団地に新しい居場所を求めていたのか。  新しいものへと変化しようとしている街。それは古いものから逃げてきた二人にとってはちょうどいい場所だったのかもしれない。  俺は福留さんと須崎さんが話していた時に感じた、引っ掛かるような思いを再び感じた。  再生って何も道路や家を新しく作り替えるだけではなく、今まで住んできた人や新しく住む人の気持ちもリスタートさせる仕事なのか……も?  俺らしくないな、とその考えを打ち消そうとしてこっそり須崎さんの顔色を伺うと、須崎さんは、「すみません、長々と」と俺に恐縮して謝った。   「いえ、話して下さってありがとうございます。福留さんにどうやってアプローチしていけばいいか、ヒントになりそうです」  俺がそう答えると、須崎さんはほっとした表情を見せた。  サ店を出ると、外はだいぶ暗くなっていた。職場に戻って日報を書いたら今日は終わりにしよう。林さんとの打ち合わせはまた明日だ。  古いしがらみに埋もれてしまった人の思いを汲み取り、手を差し伸べる仕事。  柘植の木団地再生課の仕事は、俺にとってどういう意味を持つんだろう。 「おーい、大川君。大川君?」 「あ、はい」 「エレベーター、閉まっちゃうわよぅ」 「あっすいません」  一年前の「福留さん事件簿」を思い返しながら歩いていた俺は、林さんに急かされ歩みを早めた。  林さんと俺を乗せたエレベーターは、ガコッという少し不安な音をさせてから、福留さんの住む四階へと昇り始める。機械関連はそう簡単にリニューアル工事という訳にもいかず、恐らくもうしばらくこのままだろう。  須崎さんの取り計らいがきっかけで福留さんとの接点をゲットした俺は、あの後課長や森本さん、林さんからおおいに褒められた。そんなわけで、福留さんに関してはこうやって今も俺が繋ぎ役になっているのだ。  未だに福留さんはサービスを受けることを躊躇してはいるが、サ店に顔を出しては他の住人と会話することも増えたらしい。その流れで俺もサ店に入り浸るようになり、常連認定された。  サ店のあれこれを教わった前島さんからは、 「どうやってあの頑固な福留のおじいちゃんと仲良くなったの? 再生くんなんて呼ばれちゃって」  なんてぐいぐい来られて困った。個人情報は俺の口からは教えられないからな。   「おう、再生くんも来たのか」 「やめてくださいよ福留さん。前島さんにも弄られたんですから」  あのオバハンも強力だからなぁガハハと笑って、福留さんは足を引きずりながら、林さんと俺を部屋へと引き入れた。 「福留さん、訪問ヘルパーの利用考えてみませんか? 買い物して四階まで帰って来るのこれ、大変ですよぅ」 「だから要らねえって。俺は一人でできるっつうの。民生委員さんや団地の人にも手伝ってもらってるし大丈夫だって」 「でも、電球の交換とか力仕事とかぁ」 「大丈夫大丈夫」  二人が相変わらずのやり取りをしている間に、俺は須崎さんから預かってきたボトルの蓋を開け、福留さんの家にある数少ない食器の中から湯呑みを取り出してバラココーヒーを注いだ。  密封してあっただけあって、白い湯気が立つ。それと共に強めの香りが部屋中に広がった。 「おっ、バラコかい。丁度飲みたいと思ってたんだ」  林さんとの会話を止めて、福留さんが嬉しそうな顔で湯呑みを受け取る。林さんもふぅ、と息をつくと、気を取り直したようにコーヒーの香りに笑顔を見せた。 「柘植の木喫茶さんも順調そうで良かったぁ」 「新しい入居者にも人気らしいですよ」 「そう言えば、お隣にパソコン教室入るらしいわねぇ」 「スマホの講習会もやるそうです」 「へぇ。スマホがあったら、離れて住まわれているご家族も安心よねぇ」 「そうですね」  林さんと俺の会話をしばらく聞いていた福留さんだったが、コーヒーの入った湯呑みをテーブルに置くと、参った参った、と笑った。 「わぁったよ。林さんも再生くんも、こんな爺さん相手に毎度しつけぇよなぁ。有り難くサービス使わせてもらうよ」 「良かったぁ、ありがとうございます福留さん」  バラココーヒーのアロマと柘植の木団地の暮らしが、福留さんの心を柔らかくしてくれたようだ。  林さんは、じゃ早速、と手持ちのカバンからそそくさと書類を取り出している。福留さんの記入が必要な箇所に、すべて鉛筆で丸をしてあったり付箋を付けてあったりと用意周到だ。林さんもまた、他人に手を差し伸べることで救われている何かがあるのかもしれないが、それはまた別の話だ。  350ミリリットルの残り半分を福留さんの湯呑みに注ぐと、俺は黙々と林さんを手伝った。
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