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 そこはもしかしたら今までと少し違う自分に出会える、ちょっと特別な空間なのかもしれない。  喫茶「柘植(つげ)の木団地」。団地一階部分にあたる居抜き店舗を改装したその喫茶店には、いつもコーヒーの良い香りがしている。  淹れているのは喫茶店のマスター須崎祥一(すざきしょういち)さん。俺、大川航平(おおかわこうへい)は「柘植の木団地再生課」の職員だ。  再生課に俺が配属されて一年。始めの頃を思えば、だいぶ周囲と衝突しないで仕事が出来るようになった(筈だ)。それもこれも普段は寡黙な須崎さんの、コーヒーを淹れながら時折ぼそっと掛けてくれる核心をついたひと言のおかげだと思う。  そんな風に感謝したり褒めたりすると、須崎さんは途端に「え、いや、僕は何も」と顔を真っ赤にして厨房に引きこもってしまうので、あえて言わないようにしているが。    前にちょっとだけ本人から聞いた事がある。須崎さん、普段はあがり症かつ照れ屋、口下手で、だから今こうして黙々と「喫茶店のマスター」をしているのが性に合っているんだそうだ。  須崎さんは確か俺より二十近く年上のはず。元有名レストランのシェフだったらしいが、いろいろあってシェフの座を他人に譲ってしまったらしい。らしいとしか言えないのは、雑誌やテレビで紹介されるようなレストランに全く興味のない俺が、須崎さんの前の職業なんて知る由もなかったからだ。    須崎さんに会ったのは、この喫茶店が出来てからの事だ。ちょうど一年前の今頃だな。サ店(団地の住人はここをそう呼ぶ)の窓から見える、一階の目隠し代わりに植えられたイヌツゲを眺めながら、須崎さんの淹れてくれた二杯目のコーヒーに口をつけた。酸味は少なめ、コク多め。口に含めば優しい苦みが鼻を抜ける。  こぽこぽこぽ。サ店には俺の他に常連客がもう一人だけ。サイフォンの湯の沸き上がる小さな音が、店内に広がっていく。
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