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柘植の木団地再生計画が軌道に乗っているかと言えば、そんなことは全然ない。
リノベーション計画は企業収益の見込みが立たなくて保留中だし、若いファミリー層にもまだまだ評判は広まらない。去年、チャレンジプロジェクトの募集で来てくれた空き部屋の利用者たちは、結局運営が立ちいかずに半分くらいが退去してしまった。
残りの店舗には何としても再生計画の成功モデルになってもらいたい。森本さんを筆頭に、俺たち再生課はバックアップに全力を注いでいるところだ。
弁当屋は、高齢者からのリクエストで、作り立て豆腐も扱うことになった。パソコン教室は、曜日を変えて囲碁教室も開催している。そしてマスター須崎さんの経営する喫茶柘植の木団地は──。
「……満席ですね」
「そのようですね」
開店当初から人気を集めている喫茶柘植の木団地ことサ店は、午前中から変わらぬ盛況ぶりだ。
一年経っても、飲み物のメニュー以外何かが増えたということもない。基本的にはコーヒーと軽食。それだけの店なのに、サ店は午前中と夕方前を中心に団地の住人で賑わっている。
「あら市役所の」
「おはようございます」
「座るところないわねぇ」
「いえ、仕事中ですのでおかまいなく」
サ店の常連客たちは、俺と森本さんの姿に気付いてあれこれ世話を焼いてくれようとするが、肝心の須崎さんときたら一杯のコーヒーを淹れるのに集中していて、顔も上げようとしない。いや、来店の気配は察しているのだ。最後の仕上げにフラスコを竹ベラでひと回しすれば、
「いらっしゃいませ」
と、何なら俺たちがここへ来ることを初めから分かっていたかのように言うんだから。
「あら再生くん。ごめんねぇ、うちらで陣取っちゃって」
少し離れた席から、前島さんが悪びれた風もなく声を掛けてきた。頼むから、大きな声で再生くんて言わないで欲しいんだけど。
「再生くん……ああ、大川君はそう呼ばれているのでしたか」
森本さんが心なしか楽し気だ。嫌な予感がする。職場に戻ってからそのあだ名で呼ばれそうな気がする。
「やめて下さいよ」
「課長の前では呼びませんよ」
「……」
つまりは課長のいないところで呼ぶに違いない。森本さんの場合、真面目な表情で人をからかってくるから難しい。だいぶ読めるようにはなってきたけど。
「どうします、森本さん。このまま管理事務所へ行っても、まだ開いてないですし」
「残念ですが、出直すしかないようですね」
団地での用事を済ませる前に、チャレンジプロジェクトの運営状況を視察するという名目でサ店に寄ろうとした、俺たちというか森本さんの目論見は外れてしまった。
よっぽどコーヒーが飲みたかったのだろうか、珍しく森本さんの銀縁眼鏡がどんよりと曇っている。そこへ。
「店外のベンチでも良ければ」
注文されていたコーヒーを一通り提供し終えた須崎さんが、カウンターから出てきて俺たちに告げた。
「ベンチ? マスター、いつの間にそんなものを?」
見たところ店先に変わった様子はなかった。俺の問いかけに、須崎さんは小さく笑みを浮かべた。
「普段は通行の邪魔になるので、閉じているんですが」
俺たちを店の外へ出るよう促すと、須崎さんは壁面に取り付けた折り畳みベンチを引き出してみせた。掴まるための手すりもちゃんと設置してある。
「以前、福留さんが転びそうになったことあったでしょう?」
「ああそう言えば」
バラココーヒーの好きな福留さんのことだ。足の悪い福留さんが、店の前でバランスを崩してしまった時のことを俺は思い出した。
「福留さん以外にも、そういう場面は何度か見かけたものですから。コーヒーを飲まなくとも、一休みできる椅子のようなものがあればと」
「なるほど。さすがマスターっすね」
「い、いや……、褒められるほどのものじゃ……」
須崎さんの顔が赤らみ、言葉がもたつき出す。褒められるのに慣れないのは相変わらずらしい。
そんなわけで、俺と森本さんも無事コーヒーを飲めることになった。俺はいつものインドネシア産のマンデリン。
「森本さんは、好きな銘柄とかあるんですか?」
簡易ベンチに座って何気なく口にした俺の質問が、「森林のお茶会イベント」に繋がるなんて、思うわけないじゃないか。
ついさっきまで曇っていた森本さんの銀縁眼鏡が、キラリと輝きを取り戻した。
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