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「え、なんで俺が再生課なんですか」  俺は、中堅だが実績のあるゼネコン「大川組」の社長の息子だ。修行のために別の企業で経験を積むのはよくある話だが、俺が大学を卒業した後出向させられたのは、なぜか市役所の、しかも土地建物に関係なさそうな発足したての部署。 「いや、君の御父上の仕事とも全く無縁というわけではなくてね。いずれは再開発にも携わっていく部署だ。君の力を思う存分発揮してもらえたらと思って御父上に打診したんだ」  面接の時に課長がそう言ったから、俺はこの話を受けたのに。  柘植の木団地再生課に配属されて一ヶ月経つが、再開発のサの字も出てこない毎日。そして今俺の前にある書類は、「柘植の木団地チャレンジプロジェクト応募用紙」の紙の束。 「今からこの人たち全員と面談するので、同席お願いします」  銀縁の眼鏡をカチッと上げて、再生課の先輩、森本さんがいつもの早口でまくし立てた。だいぶ聞き取れるようにはなったが、最初は全くついていけなかった。森本さんの机の上には、新作アニメのデフォルメフィギュアが整然と並んでいる。バリバリ仕事をしていたかと思うとそれらを眺めてほっこりしていたりする。ちょっと謎の女性だ。  森本さんはバサッと紙束を置くと、返事も聞かずにさっさと部屋を出て行ってしまった。俺はまた自分と関係のなさそうな仕事に溜息を吐きつつ、パラパラと紙束をめくった。   えっとなになに、目的。高齢者のためのパソコン教室、なるほど。ハンドメイド雑貨を売りたい、ふうん。喫茶店、わらび餅のお店、へぇ美味そ。応募用紙のそれぞれに利用目的、簡単な販売計画などが書かれている。柘植の木団地の空き部屋再利用の一環として、この「チャレンジプロジェクト」を打ち出したのが森本さん。なるほど、これだけの人が応募してきたという事は、このプロジェクトに需要があるということか。森本さん、やるなぁ。俺は椅子の背もたれに寄り掛っていた上体を起こし、改めて書類を見直した。  柘植の木団地の空き部屋を割安で貸し出す、改装費用の補助をする、これを機に何かチャレンジしてみたい人の夢の後押しをしますよ、という謳い文句はインターネットや広報を通してかなり遠くまで広まったらしい。  税金の滞納をしていない、必要な許認可を受けている、など一定の条件を満たしていれば、津下市民でなくても応募可能だ。けっこう遠くから面談にやってくる人もいて、柘植の木団地にも再生プロジェクトにも興味の湧かない俺でも、面談の同席には少し気を引かれた。 「大川君、早く会議室の準備手伝って下さい」  入口からまた早口が飛んできた。 「はい、今行きます」  俺は書類をひとまとめにしてファイルに挟んだ。どんな人が空き部屋を活用するんだろうか。 「今日は一階の集会所の利用希望者が集まりましたが、大川君の印象を聞かせて下さい」  面談を終えて、そのまま会議室でミーティング。森本さんはなぜだかハイテンションで、早口が更に早口になっている。 「飲食関係が多かったですね。あまり目新しさがないというか」 「気付きましたか、大川君。須崎シェフです」 「は?」 「だから、出店希望者にbistro bavard(ビストロ ヴァバール)の元シェフ、須崎祥一さんがいました。同姓同名かと思っていましたがご本人でした」 「誰ですか、須崎祥一さんて」 「え、大川君、須崎シェフを知らない」 「知りません。有名な人なんですか?」  森本さんは、あちゃーと大げさに天を仰いだ。え、そんなに知らない事がだめな感じなのか? 「ヴァバールのディナーは一ヶ月先まで予約が取れないって有名なんですが。大川君知らない。あ、そう。三年くらい前だったか急に須崎シェフが辞めてしまって。味は美味しいからお店は今も変わらず人気なんですが、須崎シェフのファンで通っていた人には衝撃が走ったのです」  森本さんの寄越す軽い蔑みの視線に身を縮めながら、その須崎さんとやらの書類にもう一度目を通す。柘植の木団地という名前を冠にした喫茶店にしたいと書いてある。高齢者や話し相手のいない人たちの憩いの場にしたいというのが目的だそうだ。メニューはコーヒーと調理の簡単な軽食のみ。 「そのビストロなんとかの元シェフが、コーヒーと軽食しか出さない喫茶店ておかしくないですか?」 「そうですね。確かに勿体ないとは思いますが、もし須崎シェフがここに出店してくれるのならこんなに有難い事はないので私は須崎さんを推します。大川君も一応一人選んでおいて下さい。今日中に課長に提出するので」  じゃ、後片付けもお願いします。ミーティングは一方的に終わり、俺は会議室に一人とり残されたのだった。俺の意見はまず採用されないだろうな。  予想通り森本さんの超絶早口のごり押しが効いて、一階の空きスペースには須崎さんの喫茶「柘植の木団地」が開店する運びとなったのだ。
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