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一瞬空耳だと思って、ぼくはまた眠ろうとまどろむ。
けどまた、声がした。
「らーら。ほら、起きて」
言われるがまま目を開けると、空耳だったと思っていた彼女の顔が目の前にあった。思わず身を引こうとしたが、本能が勝手に体を動かすもんだから、彼女の顔が見えなくなる。
「ああもう、寝坊助ね」
彼女は笑ってぼくを抱きかかえてくれる。きいろちゃんの腕の中は、変わらずにあたたかいままだ。
――ちゃんと、ここにいる。
彼女は変わらず、笑いながら続けた。
「ね、らーら。一緒に出掛けようか」
うなずく前に、ぼくを抱きかかえた彼女がすっくと立ちあがって、歩き出す。ゆらゆらと体が揺れるのに、いつも感じていた不安はなかった。
ふと気づくと、目の前に玄関がある。家の玄関だ。彼女はぼくを抱いたまま靴を履き、片手で器用に傘を手に取る。雨でも降っているのかな、と彼女を見上げると、ちょうど目が合って、小さく心臓がはねた。
「落ちないようにつかまってて」
そして彼女は、玄関から飛び出して傘を差した。瞬間、ふわり、と体が浮く。見れば、彼女は傘を回しながら、空を飛んでいた。
『きいろちゃん、お空飛べたんだ』
思わず言うと、彼女はぼくを見るなりいたずらに笑う。
「おかあさんたちには内緒だよ」
それから、すうっとどこかの屋根に降り立って、僕を片手に傘を振り回して歩いた。
トントン、トトン、トントン。
不規則なリズムで屋根の棟を歩いては飛び移り、また歩いては飛び移る。やがてその先に、海が見えた。
「ねえ、らーら」
立ち止まった彼女はじっと海を前に、つぶやく。
「この海はね、らーらと会う前にいっしょにいた子と、遊んだ場所なの」
ぼくと会う前? と首をかしげると、彼女は、うん、とうなずいた。
「その子は、きいろって名前だったの。ゴールデンレトリバーで、砂浜を走るのが大好きでね。でも、数年前にいなくなっちゃって」
この傘はその時に買ったんだ、と傘を器用に閉じて見せる。
ぼくは、いなくなっちゃったんだ、と悲しさを覚える反面、その黄色い傘がすごくキラキラして見えた。
「――だから私はあの日、あの子の亡くなった砂浜に行ったんだよね。……今思えば、ばかだったなあ」
はは、と軽く笑った彼女は、すっと砂浜に背を向け、来た道を引き返していく。今度は一定の速度で屋根を伝って、まっすぐ家へと向かっていく。
「らーら。あのさ」
『なあに?』
歩く彼女の腕の中で、ぼくは何度目かもわからないまま、彼女を見上げる。そして彼女とまた目が合った。あのカモシカのような黒い目にぼくがくっきりと映っている。
「きみはまだ、ちゃんと生きて。おかあさんとおとうさんのそばに、私の代わりにいてあげて」
『え――』
ふっと柔らかく笑った彼女の顔。今までみたことないくらい穏やかで、なのにぎゅうっと胸が、息苦しさを感じるくらい切ないものだった。
「じゃあね、らーら。ちゃんとおうちに帰るんだよ」
いつの間にかたどり着いていた家の玄関先で、すうっとおろされる。それまで感じていたぬくもりが、そっと離れていく。思わず追いかけようとするけど、彼女はぼくよりもずっと早く動く。
「ばいばい――」
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