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「きいろちゃん」
そう彼女は呼ばれていた。ぼくが知る限り、おとうさんにも、おかあさんにも、家を出て行ったおねえさんもそう呼んでいた。
だからぼくは、彼女の名前が「きいろ」だと思っていた。
『きいろちゃん、きいろちゃん』
彼女を呼ぶと、肩に垂らした黒色の、二本の三つ編みが揺れる。丸くて黒い――見たことはないけれど――カモシカのような目に、ぼくが映ると彼女はよく、ほっぺを赤くして言うんだ。
「どうしたの? らーら」
ぼくはオスなのに、らーら、と名前をもらって、未だになれない。ちょっとだけうなると、彼女はまた笑う。
「まだ名前が気に入らない?」
そう言って抱き上げて、やさしく耳を撫でてくれる。名前が気に入らないことをよくわかってるじゃないか、と思う反面、わかっているのになんでほかの名前にしてくれないの、とも思う。
伝わっているのかはわからないけど、こういうとき、彼女はいつも同じ言葉を繰り返した。
「私はね、君が『らーら』であってほしいんだよ」
それがどういう意味なのか、ぼくにはわからない。たぶん一生わかることはないのかもしれない。でもきっと、悪い意味じゃないことは、わかる。
だからぼくは少しだけうなって、彼女に身をまかせる。こんな平和な日々が、ずっと続くことを、願いながら。
そんなある日のことだった。
「それじゃあらーら、いってくるね」
制服というものに着替えて、僕の頭をなでて、おかあさんにだっこされて、玄関で彼女を見送る。いつものルーティンだ。
『いってらっしゃい』
彼女に届け、と思いながら精一杯声を出す。彼女は笑って手を振り、背を向ける。
それから彼女は、二度とこの家に帰ってこなかった。
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