第二章

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第二章

 イエラが両親を残し一人で診察室を出たのは、隣の教会の鐘が正午を告げた後だった。医師も患者も食事の時間で、木の長椅子の並ぶ待合室はがらんとしていた。いつも満席の、回廊に囲まれた薬草園を見下ろす窓側にも人影はない。行き交う人の足音や、晩夏の()に照り映える瑞々しい薬草の彩りと香りとを賛美する声が、遠く聞こえるだけだった。    人気の場所と風景を独り占めする好機だったが、イエラは全く興味を示さず、このあと行く調剤棟に近い、薄暗い一角に席を求めた。  すると思わぬ先客がいた。質素な白い布に巻かれた、厚みのある板状の包みだ。イエラは改めて待合室内を見回し、持ち主らしき人の不在を確かめる。  忘れ物? 中身は何だろう。病院でこんな荷物を持った人は見たことがない。  誰のものか調べるだけと呟いて、彼女は椅子に腰を掛け、そっと包みを解いた。はらり、布が膝の上に落ちる。    その一瞬。彼女は見知らぬ美しい庭に立っていた。大小様々に咲き誇るバラ、黄金の雨のようにつる棚から垂れたキングサリ、そして花々を引き立てる、濃く深い色の葉の重なり……。    弾かれたイエラの琴線の振れ幅が小さくなるにつれ、彼女を呑み込んだ色の渦は形を変えて、(つい)には木枠に張られたキャンバスに慎ましく収まった。  幸せな夢から()めた朝に似た、充足感と空虚感。なのに見た証も残らない夢とは違い、豊かな色彩がそのまま手元に在る不思議。扉の開閉音が現実味を失って、耳を通り抜ける。   「ああ、お嬢さん、すまない。その絵はわしの置き忘れだ」    はっと我に返った。廊下に現れたのは、腰の曲がった老人だった。(こうべ)を垂れた花の形の握りが付いた杖を突き、三本足の不規則な足取りで近づいてくる。イエラは慌てて絵を包み直した。   「勝手に開けてごめんなさい。名前が書いてあればと思って」 「字が読めるのかね、偉いものだ。ここらでは読み書きを習っていない者の方が多いよ。わしもその一人。だからその絵もサインなしだ。隣に座っていいかね。用は済んだが、乗合馬車が出るまで時間がある」 「勿論、どうぞ。お爺さんは画家なのね。素敵だわ」    座って絵を受け取りながら、老人は可笑(おか)しそうに肩を揺らした。   「素敵なものかね。これは買い手がつかずに持ち帰るところなんだよ。体にガタが来て、絵の具の在庫も僅かになったんで、最後にするつもりで描いた、思い入れある絵なんだが……それも危うく忘れ物だ。右手の杖に注意すれば、左手から荷物が消える。本当に何でも忘れるし、忘れたことすら忘れるようでいかん。何でも、だ。物も人も出来事も」 「病気のせい?」  老人の声が憂いを帯びたので、イエラは心配になって彼の顔を覗き込む。返されたのは否定だった。節と皺の目立つ指が、とんと白髪頭を叩く。 「年のせいだと」 「年を取ると忘れっぽくなるの?」 「人によっては。わしも知らなかったがな。昔は病気になっても、都で高い金を払わないと医者の顔も拝めなかったから、こんな皺くちゃになるまで生きられる人間など一握りだった。わしは運よく、酷く患いもせず、戦でも生き残り、こんな田舎にも病院が建つ時代まで辿り着いたわけだが……親は勿論、幼馴染(おさななじみ)もとうに土の下だ。寄る年波が記憶を削るなんて、教えてくれる者はなかった。嫌なものだよ。せっかく出会った君のことも、きっとそのうち忘れてしまう。こんな調子だから、今は友人の一人もいない……おまけに話が長いときた。いいとこなしだ」  イエラは目から鱗が落ちる思いだった。体の弱い彼女は、十二になったばかりにして長い命を高嶺の花と捉えていたから、それが悲しみを伴うだなんて考えたことがなかったのだ。   「でも、お爺さんは素敵だわ。その絵を見て感じたの。理由は今、よく分からない――けど理解して、あなたに伝えたいから――ああ、お父様、お母様!」  ようやく診察室から出てきた両親に、イエラは大きく手を振った。   「お誕生日に、何もいらないって言ったの、取り消すわ。私、欲しいものができたのよ!」
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