第三章

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第三章

「こうしてこの絵は、私のものになったのでした。フェムさん、どう? 思い出した?」 「ああ。あれは本当に良い日だった」  老画家の返答に、イエラは満足げに頷き、持っていた絵を机に寝かせた。   「そうね、私にとっても最高の日だった。この絵のことだけじゃないの。ほかにも欲しかったものがあってね」 「手に入ったのかい」 「ええ。今、私の前にいるわ。いつも椅子を私に譲ってくれて、自分は木箱に座るのよ」  焼き菓子とミルクを彼女に勧め、今まさに木箱に腰かけたフェムが、「大事なお客様だから」と照れた。すかさずイエラが指でバツ印を作る。 「お友達、でしょ」  フェムに出会って、無欲で無関心で無表情のイエラはいなくなった。絵を求めただけではない。その絵に描かれているのがフェムの庭と知るや、ぜひ見せてとせがんだ。一度は我儘(わがまま)を咎めた両親も、結局は一緒になってフェムに頭を下げた。娘の変化が嬉しかったのだろう。老画家が快く応じたので、普段は病院から屋敷へ寄り道せず帰る馬車が、その日は乗客を増やしてガラナス山の緩やかな坂道を走った。フェムの庭で行った絵との間違い探しは、イエラが憂うばかりだった季節の移ろいの美を教えてくれた。    それから何度もイエラは一人で馬車に乗り、このフェムの家に足を運んだ。老画家の「いつでも歓迎」という言葉に甘えて。とはいえ万一に備え、お土産と逆の手には必ずあの絵を、身分証代わりに携えていた。   「こんな友達でいいのかね。何度も同じことを話し、話させているだろう」  本人の懸念どおりだった。顔を見せただけで「イエラ、よく来たね」と声が掛かる日もあれば、「よく来たね」だけの日もあり、持参した絵を出して「この庭を見せてもらったイエラよ」と名乗るまで、困惑の眼差しを向けられる日もある。  老画家は度々(たびたび)、失礼だと自分を責めた。しかしイエラは決まって首を横に振る。 「本物のお庭を見て、絵も毎日眺めて、あなたとあなたの絵とに惹かれた理由がやっと分かったの。ただ写された風景画とは何か違う、現実が及ばない美しさがあると思ってた。これは記憶の写しなのね。あなたの頭の中だけにあるお庭の絵」 「驚いた。よく分かったね」 「ええ、あなたにとって過去は宝物なんだって、私と一緒だって、伝わってきた。なぜだかね、皆私に未来のことばかり話させたがるの。でも私にとって過去は大切。繰り返し話したい、良い思い出もあるし……たくさんのことに耐えた証でもあるし。だからフェムさん、忘れても気にしないで、私は何度でも話したいの。あなたほど良い聞き手はいないわ。弱音や愚痴なんかは特に、すぐに忘れていいからね」  努めて明るく話しつつ、イエラは素直すぎる自分に戸惑っていた。そして彼女に残る自制心をも、穏やかなフェムの声が容易(たやす)く奪い去る。 「なら早速(さっそく)、弱音や愚痴を聴こうかね。君がわしを理解してくれたように、わしも君を知りたい」  とりとめなく、イエラは喋った。美味しい薬はなぜないのか。自分を子ども扱いしない医者、治してくれる医者はいくつ病院を回れば見つかるのか。手足が棒のようだと男の子に揶揄(からか)われたこと。それを(いさ)めてくれた年上の女の子と仲良くなれたのに、引っ越しで台無しになったこと。  フェムは時折相槌を打ちながら、静かに耳を傾けていた。   「その女の子ね、恋人の横顔の切り絵を持ってたわ。両親がなかなか恋人に会うのを許してくれなくて、寂しいから友達に作ってもらったそうよ」 「影もその人の一部だからな」 「(そば)にいる気分になれるのね。けどどうしても直接会いたいときのための秘策もあったの。恋人の家に、指輪とか日記の鍵とかを置いてくるのよ。忘れ物を取りに行かなきゃって言えば、家を出られるわけ」 「それはそれは。親御さんは気づいていると思うがね」  笑うフェムに、そうかしらとイエラは小首を傾げた。   「でも、憧れるわ。取りに戻るための忘れ物。未来に自分はいるって自信があって、なおかつ忘れ物を守っててくれる人がいないとできないことだもの」    話し過ぎを自覚し、勝手に動く口をミルクで封じるイエラ。  フェムもしばらく沈黙していたが、ふと立ち上がって隣室に向かい、筆にパレット、数個の小さな壺などを手に戻ってきた。「足りるかな」と(ひと)()ちながら、壁の一か所に触れる。窓からの光を受け、イエラの影がくっきりと映っている場所だった。   「わしは忘れ物をするばかりだから、してもらう方に憧れるね。下塗りなし、描き手に人物画の才能なしだが……ここに『忘れ物』をしていってくれるかい」  壁に描いたら動かせない。取りにきてもまた「忘れて」いくしかない。そうしたらまた取りにこなければ。  一度は置いた筆と残り僅かなはずの絵の具を持ち出したフェム、その意を()んだイエラは、今度こそ心の底から笑って、強く頷いた。   「私の一部だもの、必ず私が取りにくるわ」    絵の具を練る老画家の横で、彼女は自分を置いていく壁を丁寧に拭った。それから椅子に戻ると、馬車の中や病院で読むのに持ち歩いている詩集を開き、あとは胸を高鳴らせてただ待った。    そして日が傾き、迎えの馬車がくる前に、フェムはイエラの影の一層を剥がし取り、壁に絵の具で縫い留めた。  それが今の「私」、彼女の「忘れ物」だ。
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