第四章

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第四章

「フェムさん、病院の待合室の新しい絵、見た? 銀のベールを被った女の人が、誰かを助け起こすみたいに、足元に手を差し伸べている絵よ。地面に垂れた真っ白な帯が綺麗だった。題名は『待つ』だったけど、どういう意味かしら。彼女が誰かを待っているのか、作者が彼女を待っているのか。気になるわ」  イエラと離れ、情報を共有しなくなった私は、病院のことを渋面を作らず話す彼女に驚かされた。    フェムは色づいたイチョウの葉を(もてあそ)びながら、記憶を探る遠い目をしていた。イエラが抱えてきたパン入りの(かご)に迷い込んでいたものだ。  もうイエラはあの絵を持ってはこなかった。私という身分証があるからだ。「忘れ物を取りにきましたよ」という新たな挨拶を、彼女は気に入っているようだった。私も毎朝、私に対するフェムの反応でその日の彼の調子を量る、そんな生活を楽しむようになっていた。   「女神ガラナスの絵か。見たかな。忘れたな」 「ガラナス? この山と同じ名前ね。なぜ絵を見ずに分かるの」 「ああ、君は他所(よそ)から越してきたんだったな。ガラナスはこの山の女神、そして『銀のベール』と『白帯』は、彼女を表す符号なんだよ。アトリビュートと言うんだが」  鸚鵡返(おうむがえ)しするイエラに、フェムは手の中の葉と脇に置いていた杖を取り換えて、説明を始めた。彼の持ち物で唯一特徴的な、洒落た握りの杖だ。 「例えば……迷子になったわしを君が探している。似顔絵はない。わしを見なかったかと人に尋ねたい。さて、どう話す?」 「ええと、髪が白くて顔に皺があって、背中が丸くて……そうだ、握りがお花の形をした杖を持っているって言うわ」 「良い答えだ。『一般的な老人』を、花の握りの杖という持ち物が『フェム』にしてくれた。これがアトリビュート。その人が誰かを示す持ち物のことだ。ここらで生まれた者は皆、ガラナスの神話を聞いて育つから、山頂にかかる霧のようなベールと、遠目から見た白い花の群生のような帯を纏う女性といえば、彼女だと認識できる」 「じゃあ皆にガラナスを描いてと頼んだら、顔は全部違っても、ベールと白帯の装いは同じになるのね」  最近の出来事には寡黙なフェムが、すらすらと言葉を紡ぐので、イエラは感心しきりだった。私もだ。「年波」とやらは古い記憶には手が届かないのかもしれない。 「そういえばその杖は、フェムさんのお手製?」 「そうだよ。わしの一番好きな花を(かたど)ってある。スノードロップだ。この辺の名物だが、もう見たかい」 「いいえ。本物はどんな色? どこに咲いてる?」 「さっき話した、女神の帯に例えられる白い花だよ。我が家の周り一帯の群生は特に見事でな、この地域が『ガラナスの白帯』と呼ばれるくらいだ。だが残念、ご覧のとおり今は咲いていない。あれは早春の花だからね」  イエラの顔が、明らかに曇った。   「……私が引っ越してきた頃には、夏が始まってた。あと残っている秋を過ごして、さらに冬を越えないと、その花は見られないのね」 「どうしたね。今すぐ見たかったかい」    私には彼女の不安が察せられたが、フェムはどうだっただろう。彼はイエラの事情を忘れたようでもあり、心得た上で敢えてそうしているようでもある、落ち着いた調子でこう続けた。 「じれったいだろうが、一緒に待って、一緒に見よう。これからは彩りの乏しい、寂しい季節になるけれど、その終わりがけ、雪があの白い花に姿を変えて、別れの挨拶をしてくれる。ほかの季節に比べると冬は不愛想なやつだがな、最後にそんな可愛げを見せるから、嫌いになれない。スノードロップのおかげで、わしはすべての季節を、移り変わる時を愛せるんだ。それが更なる老いを(もたら)すとしても」  この家を訪れてからの、イエラの心の動きが思い出された。庭と絵との間違い探しや、「取りに戻るための忘れ物」の守り人を買って出たフェムの後押しで、彼女はかけがえのないものを得た。とどまることのない時の流れを受け入れて、その中で自分なりの幸せを手繰り寄せる強さだ。  それを再び、彼女は自らの中に見出すことができたらしい。杖を握る老画家の手に、骨の浮いた小さな手を重ねたときには、表情から陰りが消えていた。 「フェムさん、ありがとう。やっぱりあなたは最高のお友達。私、待合室の絵の謎が解けたわ。あれには春を『待つ』心が描かれているのね。地に垂れた白帯のようにスノードロップが花開く日を、待ち焦がれる気持ちが。私も待つわ、次の春を。実はね、もしかしたら、しばらくここへは来られないかもしれないんだけど――けど必ず戻ってくるから、一緒にお花を見るって約束、忘れないで(・・・・・)ね」 「……勿論さ。君は『忘れ物』を取りにくるって約束も、忘れずに(・・・・)な」  揃って私を見つめたあと、二人はパンの籠にポットとコップ、リンゴを詰め、迷子のイチョウを帰すべく、外へ出て行った。年季の入った窓を抜けて、朗らかな声がここまで届いた。    私は二人の会話を振り返っていた。  イエラが身に着けた強さは、今になってなぜ揺らいだのだろう。  それから「忘れずに」と「忘れないで」が気にかかる。忘れっぽさを気に病むフェム、彼の苦悩を知るイエラ、二人は今まで、意識してその(たぐい)の言葉を避けてきたのではなかったか。    最大限に打ち解けた証の冗談ならいい。いや、そうに違いない。    違和感が胸に呼び込む風が冷たく、私は自分にそう言い聞かせた。
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