第五章

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第五章

 イエラの「もしかしたら」は現実となった。彼女を乗せた馬車の音は久しく聞こえず、窓の外に見える小道に刻まれた(わだち)を、まずは落ち葉が、次に雪が埋めてしまった。  そして彼女がフェムに刻んだ思い出も、時の中に埋められていく。フェムはよく私の前に座り、長いこと視線を送ってきた。そこに込められていた期待が疑問に変わっていくのを感じて、怖かった。君は誰だと問われたらどうしよう、そんなことばかり考えた。イエラは老画家も自分も傷つけず、自然に自己紹介を繰り返したけれど、私には到底真似できない。木箱に掛けたフェムが、自分自身に戸惑ったような顔をして椅子に移るのを見ると、切なくて(たま)らなかった。 「君と話をした気がするんだ」  ある朝、三度目の朝食を準備しようとしていた彼は、ふと手を止めて私を振り返った。 「本当だったらいいなと思うよ」  そう言って二人分の食器を机に並べ、コップにミルクを注いだ。が、口を付けなかった。細かく震える手の中で、白い液体が波紋を作るのに目を奪われていた――かと思えば急に立ち上がったものだから、コップが倒れて、ミルクは皆こぼれてしまった。    狼狽(うろた)え、この黒い本のページを破って使いたいなどと非現実的なことを思う私を通りすぎ、フェムは杖も突かずにふらつきながら隣室へ向かうと、画材を抱えて戻ってきた。私を描いたあの日のように。    拭き掃除どころか寝も食べもせず、彼は絵の具を練り、筆を握り続けた。キャンバスは、私の持つ本の表紙。かつて彼が塗った絵の具の上。主人に忠実でない指に鞭打ち、老画家が描き上げたのは、真っ白なスノードロップの花だった。    イエラを思い出したのかと私は喜んだが、彼は何も語らなかった。それから画材も食器も片付けずに、上着を羽織って出かけてしまった。  さすがに空腹で、買物に行ったのだろう。疲れた体を病院で診てもらうのかもしれない。雪も降っているし、帰りは遅くなりそうだ。    覚悟して私は待ったが、予想よりフェムの帰りは遅れた。ミルクが乾き絵の具が乾き、皿に埃が積もっても、彼は帰ってこなかった。
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