4人が本棚に入れています
本棚に追加
『海のようだな』
滝のような雨になり、目の前の店も霞んできた。佐藤はコーヒーを受け取ると、慌てたように急ぎ足で駅の方に向かって行った。
その後ろに並んでいた客も雨の凄さに辟易したようで、いつの間にか人がいなくなったようだ。
『ここが海で俺が人魚だったなら』
きっとあの出窓の近くまで行って彼女を眺めるだろう。そしてあの笑顔を見て、声を聞き、満足してまた深海に潜る。誰もいなくなった時にだけ、そっと海から上がりコーヒーをもらう。
『ははっ、らしくない』
学生の頃はそれなりにモテた。だが、「小田島グループ」という看板越しに見ている女どもが煩わしくてしょうがなかった。今の職場でもそうだ。結局はバレている。声高に指摘されたことはないが、勤め始めて2か月後に同じ課の上司にこっそりと訊かれた。
『小田島君って、あの小田島グループの息子さんだって本当?』
別に隠す気持ちもなかったし、同意した。でも次の日には職場中に広がったのが分かった。周りの俺を見る目が違っていた。そして上目遣いに俺を見るようになった同期の女性たち。
『勘当されて今は実家とは関わりない、とでも言っときや良かったぜ』
今の俺をありのままで受け入れてくれる、そんな女の子と出会いたい。公務員として働いてそれなりの年収もあるし、贅沢はしていない。実家を出た時にも普段着る服以外のものは全て置いてきた。
『人魚になりたいな』
人魚になってあの子のそばに行っても、彼女は笑って聞いてくれるのだろう。「何になさいますか?」と。
あの時に貰ったクッキーは甘くて、同時にほろ苦かった。「下手くそなんです」そうペロリと舌を出して呟いた顔はとてもチャーミングで、俺の側でだけあの顔を見せて欲しくて……。
「あぁっ! もう! 俺らしくねえ! なんで臆病なんだ!」
とっくに消えていた煙草を灰皿に投げ入れて、頭を抱える。今まで恋愛には事欠かなかった。小田島の看板越しに俺を見る女どもが後を絶たなかった。俺も気に入った子が現れればいつでも乗り換えて。
「コーヒー飲みてぇ。そしてあのクッキーも……」
自分から好きになったことがない。この気持ちをどうしたらいいのかが分からない。佐藤のように毎日列に並ぶ? いやいや、それでは俺のプライドが。
「はい。前と同じキリマンジャロですけど、良かったですか?」
可愛らしい声にハッとして顔を上げる。目の前には、真っ赤な傘を差してコーヒーカップを手にした女性が。
「あ、はい」
思わず差し出されたコーヒーカップを手にする。少しだけ触れた華奢な指先。笑顔で立つ女の子の向こう側を見ると、閉まった窓口が夕日を反射しているのが見えた。
「クッキー、食べます?」
「クッキー?」
帽子をとって髪を解いた女の子が、かけたままのエプロンのポケットから小さな包みを取り出した。
「あなたに食べて欲しくて、ずっと練習していたの。今日は成功したと思うわ。良かったら……」
笑顔が眩しい。ハート柄の小さな包みに入っているクッキーが輝いて見える。差し出した手に、彼女の傘から一粒雨が落ちてきた。
……気がつくと、あれほど酷かった雨が止んでいた。
ー 完 ー
2022.12.19
もこ
最初のコメントを投稿しよう!