シレーヌの恋

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 それは人魚の恋に似ていた。    煙草に火をつける。コンビニで買った安いライターがなかなか火がつかない。元婚約者の華那から1週間前に送られてきたジッポを捨ててしまったことが悔やまれる。 『純銀製だなんて……持ち歩けるわけないだろ』  父親の会社の系列に就職させられそうになり、大喧嘩の末家を飛び出した。従順な兄貴が後を継ぐ。それで充分。当てこするように遠くの町の市役所に就職した俺を、家族は無言で非難した。  親父のいいなりである母親も、俺が荷物を纏めているのを無言で眺めては立ち去り、家を出る時にはどこにもいなかった。寂しいとは思っていない。虚飾に満ちていた生活から離れられて気持ちがいい。1人で暮らし始めて4年が経った。  華那にも別れを告げて身を隠そうと思ったが、失敗したらしい。俺の住所がバレていた。まあ、この市役所に勤め始めたのは周知の事実だし、しょうがないといえば諦めもつく。探偵でも雇ったのだろう。 『今日も繁盛しているな』  煙草にようやく火をつけて雨の向こうの通りに目を向ける。さっき降り出したばかりなのに雨足が強くなり、この喫煙スペースの屋根を激しく叩いている。地面から跳ね返った水が、ベンチに座った俺の靴を濡らした。  通りを行き交う車は急に溜まり始めた水たまりを跳ねつけて、大きな水飛沫をあげている。  雨で煙った通りの向こうには珈琲専門店。出窓の近くには長い行列。一年前にできたばかりで話題になった時には昼休みに俺も他の同僚と並んだ。  現地直輸入のコーヒー豆をオーナー自ら焙煎しているという珈琲は評判通りで美味かった。 『お、あの子だ。』  茶色の胸当てのあるエプロンに同じ色のワークキャップ。長い髪を後ろで一つに纏めている。アッシュブラウンのカールした髪が動くたびに陽気に跳ねる。 「ありがとうございましたーー」  車が途絶えた瞬間にあの子の声が響いてくる。2か月前から働くあの子は大学を卒業したばかり。両親を手伝おうと企業には就職しなかったとか。 『小田島さん、狙っているんですかあ?』  情報をよこした同じ住民課の後輩、佐藤の声が頭によみがえる。佐藤はあそこに並んでいる。紺色のバカでかい傘を独りで差して、後ろの女性が迷惑そうだ。あと3番目。佐藤は毎日、仕事帰りにあの子に会うためだけにコーヒーを買って帰る。 『何言ってんだか』  確かに可愛い。会社帰りに珍しく人がいなかったのを見つけてコーヒーを買いに行った時の笑顔が忘れられない。 『クッキーいかがですか? お店で出そうかと焼いてみたのですけど、オーナーに止められて……。お腹は壊さないと思います』  悪戯っぽく笑った彼女が透明な袋に綺麗にクッキーを並べた小さな包みを差し出してきた。お礼を言って受け取った俺に、 『いつもあちらで休んでらっしゃいますよね?』 という指先を見れば、いつもの喫煙スペース。 『見られていた。マジか……』  気にするなという方が無理だ。あれから毎日俺は彼女の姿を追うようになった。
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