シレーヌの恋

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『海のようだな』  滝のような雨になり、目の前の店も霞んできた。佐藤はコーヒーを受け取ると、慌てたように急ぎ足で駅の方に向かって行った。  その後ろに並んでいた客も雨の凄さに辟易したようで、いつの間にか人がいなくなったようだ。 『ここが海で俺が人魚だったなら』  きっとあの出窓の近くまで行って彼女を眺めるだろう。そしてあの笑顔を見て、声を聞き、満足してまた深海に潜る。誰もいなくなった時にだけ、そっと海から上がりコーヒーをもらう。 『ははっ、らしくない』  学生の頃はそれなりにモテた。だが、「小田島グループ」という看板越しに見ている女どもが煩わしくてしょうがなかった。今の職場でもそうだ。結局はバレている。声高に指摘されたことはないが、勤め始めて2か月後に同じ課の上司にこっそりと訊かれた。 『小田島君って、あの小田島グループの息子さんだって本当?』  別に隠す気持ちもなかったし、同意した。でも次の日には職場中に広がったのが分かった。周りの俺を見る目が違っていた。そして上目遣いに俺を見るようになった同期の女性たち。 『勘当されて今は実家とは関わりない、とでも言っときや良かったぜ』  今の俺をありのままで受け入れてくれる、そんな女の子と出会いたい。公務員として働いてそれなりの年収もあるし、贅沢はしていない。実家を出た時にも普段着る服以外のものは全て置いてきた。 『人魚になりたいな』  人魚になってあの子のそばに行っても、彼女は笑って聞いてくれるのだろう。「何になさいますか?」と。  あの時に貰ったクッキーは甘くて、同時にほろ苦かった。「下手くそなんです」そうペロリと舌を出して呟いた顔はとてもチャーミングで、俺の側でだけあの顔を見せて欲しくて……。 「あぁっ! もう! 俺らしくねえ! なんで臆病なんだ!」  とっくに消えていた煙草を灰皿に投げ入れて、頭を抱える。今まで恋愛には事欠かなかった。小田島の看板越しに俺を見る女どもが後を絶たなかった。俺も気に入った子が現れればいつでも乗り換えて。 「コーヒー飲みてぇ。そしてあのクッキーも……」  自分から好きになったことがない。この気持ちをどうしたらいいのかが分からない。佐藤のように毎日列に並ぶ? いやいや、それでは俺のプライドが。 「はい。前と同じキリマンジャロですけど、良かったですか?」  可愛らしい声にハッとして顔を上げる。目の前には、真っ赤な傘を差してコーヒーカップを手にした女性が。 「あ、はい」  思わず差し出されたコーヒーカップを手にする。少しだけ触れた華奢な指先。笑顔で立つ女の子の向こう側を見ると、閉まった窓口が夕日を反射しているのが見えた。 「クッキー、食べます?」 「クッキー?」  帽子をとって髪を解いた女の子が、かけたままのエプロンのポケットから小さな包みを取り出した。 「あなたに食べて欲しくて、ずっと練習していたの。今日は成功したと思うわ。良かったら……」  笑顔が眩しい。ハート柄の小さな包みに入っているクッキーが輝いて見える。差し出した手に、彼女の傘から一粒雨が落ちてきた。  ……気がつくと、あれほど酷かった雨が止んでいた。 ー 完 ー 2022.12.19 もこ    
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