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兜悟朗には申し訳ないが、今は自分が平静でいられそうにない。
ゆえに少しだけ彼と距離を置きたかった。そういった意図で彼女に尋ねてみたのだが形南は予想外なことに別の意見を口にしてくる。
「それでしたら他の執事に交代しましょうか?」
(え)
それは嶺歌の頭になかった。確かに今嶺歌が遠ざけたいのは執事というエスコートの相手ではなく、兜悟朗という一人の人間だ。形南の提案は決して悪いものではない。
だが不思議なことにその提案に頷きたいとは思えない自分がいた。
そしてそこで兜悟朗が口にしていた言葉も同時に思い出す。
――――――『もし貴女様がお気に召される執事がおりましたら、何なりとお申し付け下さい。直ぐにその者と交代いたします』
(それはなんかやだ)
「ううん、エスコートは兜悟朗さんのままで大丈夫! 今だけ、十分でいいからちょっとタンマ」
嶺歌は大きく首を振ると形南に自身の要望を伝える。しかし嶺歌の心理が分かるはずもない形南は不思議そうな顔をしながらも再び言葉を返す。
「? 遠慮は不要ですのよ、やはり他の執事を……」
「まったまった!!! 違くて!! 兜悟朗さんが嫌とかそういうのじゃなくて、ていうかエスコートは兜悟朗さんがいいんだけど! ちょっと数分だけ頭冷やす時間がほしくて!!」
嶺歌の声は柄にもなく上擦り、そのまま言い訳がましくも小っ恥ずかしい台詞を早口に並べ立てると、シンとその場が一瞬静まる。ああ、もうこれはまずい。
「えーっと、他の執事さんは呼ばなくて大丈夫で。つまり……」
(兜悟朗さんがいいんだ、あたし)
言い訳のような言葉を口走りながら嶺歌は心の中でそれを自覚する。
しかしまるで告白のような気恥ずかしい台詞を吐いて羞恥心に駆られるくらいなら、大人しく形南の意見に同調していればよかったのにと思われるかもしれない。
それに嶺歌自身もこんな恥ずかしい思いをしてまで、自分は兜悟朗をエスコートの相手にしたいのかと我ながら驚いた。だがどうしても彼以外の男性に連れ添ってほしいと思えない。
これは思っていた以上に兜悟朗のことを自分が信頼しており、実家の安心感のようなものを感じているという事なのだろうか。
(いやとりま、どちらにしても今は離脱したい!)
兎にも角にも今のこの状況の空気感に耐えかねた嶺歌は即座に「ごめんっちょっとトイレ!!!」と口に出すと迅速にその場を後にする。こんなに恥ずかしい思いをしたのはいつぶりだろうか。
嶺歌は顔の熱がまるで湯気のように上昇していくのを体感しながら、一目散にトイレへ駆け込むのであった。
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