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そんな嶺歌とは対照的に兜悟朗は柔らかな笑みをこちらに向けたままこのような言葉を口にしてきた。
「とんでも御座いません。彼も限界のようですので僕は平尾様の介抱をしてきます」
「え、あ……はいお願いします」
(あれっ!!?)
そこで嶺歌は気が付く。兜悟朗の一人称が再び僕になっていた事に。バッと兜悟朗を見るが彼に特に変化は見られない。
嶺歌はそのまま大きな背中を嶺歌に向けて形南と平尾の元へ向かう兜悟朗を、ただ見つめる。そして次第にもしかしてという気持ちが嶺歌の思考回路を俊足に駆け巡っていた。
嶺歌の心中はこれでもかという程にあらゆる蓋然性を浮かび上げ、そうしてその一つの可能性に胸が高鳴った。
(もしかして……あたしと二人の時だけ?)
兜悟朗が形南の前では『私』と呼ぶ事は間違いがない。彼が一人称を変えていたのは決まって嶺歌と二人きりで会話をしていた時だけだ。
その事実に気が付き嶺歌の鼓動は一層速まっていく。
兜悟朗は手早い手つきで平尾を支えると彼を公衆トイレまで連れて行った。
形南は不安そうに見ていたが、兜悟朗がお任せくださいと笑みをこぼしているのを見て、彼に一任する事を決めたらしい。本当は形南自身が平尾を介抱したかったであろうに。
しかし慣れていない形南が行うよりも迅速に事を成せる兜悟朗に任せる方が平尾にとって一番いい事を形南は理解しているのだ。
そんな事を客観的に捉えながら嶺歌は、平尾の心配よりも自分の胸の高鳴りに気が入っていた事にようやく気が付いていた。
(うわ、それどころじゃないのにあたし最低じゃん)
しかし反省するのは後だ。
今出来る事をしようと思い直すと兜悟朗への感情は一旦排除して心配そうにトイレに消えた二人の姿を遠くから見つめる形南の元へ近付いた。
「あれな、アトラクション酔いだろうからきっとすぐ良くなるよ」
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