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「今日はとっても楽しかったですの。嶺歌、また遊びにいらしてね」
夕方になり、この後稽古があるという形南は嶺歌をリムジンに乗せて嶺歌の住むマンションまで見送りに来てくれていた。こちらを降ろした後にそのまま稽古に出向くようだった。
嶺歌は自分の隣に腰掛け満足げに話しかけてくる形南に笑みを返しながら「こちらこそありがと」と返事をする。色々と濃い一日であったが、どれも充実としていてとても楽しい一日だった。それだけは悩む事なく断言する事が出来る。
「兜悟朗が描画した絵画には満足していただけたかしら」
途中、形南が嬉しそうにそう尋ねてきた。その言葉で嶺歌は先ほど目にした彼の絵画を思い浮かべる。率直に言って、彼の腕はプロそのものであった。凄いという言葉以外に感想が思いつかない。
いや、それだけでは表現しきれない程の繊細なタッチだった。芸術には詳しくない嶺歌だが、あの絵がどれ程の価値のものであるのかは理解できる。嶺歌は今回の件で改めて兜悟朗のスペックの高さを再認識していた。
「うん、感動したよ。執事さんの絵の腕前はレベルが高すぎだよ」
そう言って形南に笑みを向けると形南は「まあ」と声を出し、嬉しそうに口を緩めて小さく笑う。そしてすぐに彼女は別の言葉を続けて口にした。
「ねえ嶺歌、兜悟朗の事をそのように堅苦しく呼ぶ必要はありませんの」
「左様でございます。私の事はどうか、呼び捨てで」
「え!? いやでも……」
突然の話題に嶺歌は言葉を詰まらせる。それは流石にどうなのだろうか。そう思い悩んでいるとドンッと何かが当たる音が後ろの方から聞こえてきた。
「何事ですの?」
「自転車のようで御座います。お嬢様と和泉様はこちらでお待ち下さい」
そう言うと兜悟朗は素早く運転席を後にし車から降りていった。どうやら赤信号で一時停車していたリムジンに向かって自転車が突進してきたようだ。
窓から顔を覗き込み、党悟朗と話している人物を見ると顔色の悪い男性が何度も頭を下げ彼に謝罪をしている。この様子だと、不注意でリムジンにぶつかってしまったという所だろう。
嶺歌は小さく安堵の息を漏らすと形南が「良かったですわ」と息を吐いている事に気がつく。怪我人はいないこの状況に彼女も嶺歌と同じく安心した様子だった。
それから数分が経ち、兜悟朗が戻ってくる。男性とは和解したようでそのまま事なきを得たようだ。嶺歌の予想であれば財閥の車に傷を付けたのだから、何かしらのお咎めをするのではないかと内心考えていた。
だが、兜悟朗からはそのような話が出ることもなく、主導権を握る形南も「よくやったわ兜悟朗」と口にするだけで、自転車で衝突してきた中年男性のお咎めに関しては一切触れることがなかった。そんな状況を第三者である嶺歌はこの目で見て確かに感じ取っていた。
(優しいんだな……)
ただ純粋に、そう思ったのだ。
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