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それから数十分が経ち、嶺歌の暮らすマンションへと到着する。嶺歌はいつものように降車の際にエスコートしてくれる兜悟朗に対して「ありがとうございます」と言葉を告げると一拍置いてから「兜悟朗さん」と付け加えた。先程の話を覚えていたからだ。躊躇いはあったものの、本人にそう言われたからにはこう呼ぶのが最善だろう。そう思ったのだ。
嶺歌のその言葉に彼は微笑ましそうに表情を和らげるとそのまま「とんでも御座いません和泉様」と声を返してくる。彼の反応を目にして、嶺歌は己も感じたことを彼に告げてみる事にした。
「あのー、あたしも出来れば堅苦しい敬称はなしで大丈夫です。普通に嶺歌と呼んで下さい」
「あら! 兜悟朗、否定は許しませんのよ」
嶺歌の発言にいの一番に反応した形南はすかさず兜悟朗を制する。彼女らしいと思いつつも彼の反応が気になる嶺歌はそのまま返事を待った。
すると兜悟朗は和やかな笑みを維持したまま「はいお嬢様。それでは嶺歌さんと」と言葉を発した。
彼の性格上、流石に呼び捨てで呼称されるとは思っていなかったものの改めてさん付けで呼ばれるこの状況に嶺歌は不思議な思いを抱く。そしてそう呼ばれる事がまた不思議と嬉しかった。理由は定かではないが、自然と温かな気持ちになってくるのを実感する。
「分かりました。えっとあれな、今日もありがとうね! じゃあまた」
そう言い逃げをするように早口に言葉を並べたて、嶺歌は形南に向かって手を振った。形南も嬉しそうに手を振るとそのままリムジンは発車し、あっという間に目の前から消えていく。何だか今日はいつも以上に濃厚な一日であった。
嶺歌はそう思いながらも楽しかった時間に気分を上げ、その高揚した熱は夜になるまで続いていた。
第九話『お世辞だとしても』終
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