〜prologue〜

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二つの足音のうちの一つは、部屋の中をまだ歩き回っていたが、もう一つは私の側でピタリと止まる。 「……目が、覚めましたか?」 それが、自分に向けられた言葉だと認識する間に、視界にはつま先まで完璧に手入れされた、光沢のある黒い革靴が映る。 目線を足元からゆっくりと上げていくと、スーツの上に白衣を纏った男性がとても和やかな表情で、私の様子を窺うように立っていた。 年齢はおそらく私と同じくらいで30歳前後といったところだろうか。 端正で気品のある顔立ちで、物腰の柔らかそうな落ち着いた雰囲気の男性だ。 「気分はどうですか?」 返事をしない私を気遣うように、再度向けられた質問に答えようとしたが、口の中が渇き切っており、思うように声が出せなかった。 炎天下で丸一日かけて天日干しされた洗濯物のように、カラカラに乾燥していた唇を微かに噛み締めて、唾を飲み込んで喉元を潤す。 「……あの……あなたは、一体……」 力を絞り絞って発した声は驚くほどに弱々しくて、ここが都会の雑踏だったとしたら、何を言ったのか聞き返されただろうが、空調とモニターの音しか聞こえないこの静かな空間では、その心配は無用だった。 「申し遅れました。私はこの病院で医師をしております、マスギと申します」 そう言って、首からぶら下げているIDカードのようなものを見せてくれたが、視力が良くない私が確認できたのは顔写真だけで、そこに書かれてある小さな文字までは確認できなかった。
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