肝試し

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肝試し

 成程…  山本庄左衛門(しょうざえもん)は目の前の光景に驚いてはいたが、同時に納得していた。 ✩.*˚ 『肝試しをしよう』と言い出したのは、お調子者の喜兵衛という悪友で、真面目な庄左ヱ門はそれに巻き込まれた被害者だ。  乗り気でない庄左ヱ門に、周りは『臆病風に吹かれたのだ』と悪口を並べた。  腰に刀を()く者として、そのように言われて黙っているなら、ご先祖さまから頂戴した山本の名前に泥を塗る事になる。 『良かろう、ならば(それがし)が先駆けて参る』と大見得を切って、安酒の酔いの()めぬまま店を飛び出した。  幾度と(あるじ)を変えた天下が徳川のものとなって久しい。  泰平(たいへい)の世となり、武士はその役割を変えた。  もう、絵巻物で語られる戦国の世のように、剣の腕で成り上がる世ではなくなった。  生真面目な庄左ヱ門も立身出世の道を半ば諦めていた。  それでも、武士の矜持(きょうじ)を忘れた訳では無い。  雨漏りのする長屋に住まおうとも、傘や草履(ぞうり)を作って飢えを(しの)いでも、武士として恥じぬ生き方をしてきたつもりだ。  提灯の灯りもなく、雲間から差し込む月明かりを頼りに、秋の乾いた風に背中を押されて歩いた。  行き先は、随分昔に潰れた、(あやかし)の出ると噂されている置屋だ。  町外れの街道の傍に(たたず)む不気味な廃屋は、その昔、春を売る娘らを置いていた。  茶屋の客引きが過剰なものとなり、風紀を乱すとして、お上の命令でその手の店は全て一箇所に移動した。  今では(くるわ)や遊郭と呼ばれる塀の町に行かねば、春を買うのすら罪に問われるようになった。  まるで武士のようではないか?  庄左ヱ門の中で、僅かにだが、この廃屋に同情する気持ちが芽生えた。  泰平の世になり、戦が不要になったが故に、行き場をなくした武士のように思えてしまった。 ✩.*˚ 「御免」と誰もいない荒屋(あばらや)に声を掛けて、湿気を含んで建付けの悪くなった戸を開け、中に踏み入った。  案の定、答える声も無く、時折風が吹いて不気味な家鳴りの(きし)む音が(わび)しげだ。  不気味なのは古い(たたず)まいのせいだろう…  空気が温く感じるのは、柱や床が湿っているからだ。  やはり、妖が出るなど、臆病者の見た幻なのであろう。  ギシギシと床の軋む音に用心しながら、廃屋の奥へと進んだ。  手前で引き返しては、行った事にはならない。  一番奥の、最後の部屋まで行って、証拠を残してこなければ、(おとこ)を見せたことにはならないのだ。  何か残すものは無いかと(ふところ)を探ると、懐紙(かいし)に包んだ食べかけの干菓子が残っていた。    これを残してくれば証拠になるだろう。  そう一人で納得しながら、庄左エ門は軋む階段を上がり、一番奥の部屋に足を進めた。  どの部屋も、わずかに生活感が残り、それが侘しさを増幅させた。  外から差し込む月明りを頼りに、一番奥の部屋の建付けの悪い(ふすま)を開けると、床の間に獣のような木製の置物が残っていた。  放置され、くたびれて面妖な姿になっていた置物は、その形から犬か狐のように見えた。  庄左エ門はその置物の前に、懐紙で包んだ食いかけの干菓子を置いた。  これでよかろう、と腹の中で一人呟いて、帰ろうと(きびす)を返した。 「おやまぁ…これは頂戴(ちょうだい)してようござんすか?」  何の前触れもなく、女の声が聞こえた。  庄左エ門が慌てて視線を巡らせると、先ほど干菓子を置いた床の間に、くっきりと見える赤い襦袢(じゅばん)に身を包んだ女が、行儀悪く足を組んで座っていた。  一体どこから来たのか?幻か?  我が目を疑う庄左エ門に、赤襦袢の女は妖艶に笑って「有り難う」と干菓子の礼を言った。  彼女は白い指先で食いかけの干菓子を(つま)むと、赤い紅を引いた口に干菓子を押し込んで、粉の残った指先をしゃぶった。 「あぁ…美味しい…」と満足げにうっそりと呟いて、女はまた庄左エ門に礼を言った。 「有り難う、お侍さん。あんた良い男だね。 甘いものなんて久しぶりよぉ…わっち、甘いもの大好きなのさ」  嬉しそうにけらけら笑う姿は妖艶で、庄左エ門は目が離せなくなっていた。  男なら誰もが庄左エ門と同じ視線をなぞっただろう。  はだけたような赤い襦袢から覗く白い肌は、月の光を反射して、暗い部屋の中で一段と輝いて見えた。  白い細い首をなぞって、丸みを帯びた二つの乳房はきわどい曲線を描きながら、襦袢の中に隠れていた。  帯でくびれた腰は丸みを帯びて、その先に白く柔らかそうな(もも)がつながっていた。重なった襦袢の裾から伸びた腿は生き生きとしたなまめかしさを(かも)し出していた。  彼女は生きている女そのものだ。 「ご馳走様」と笑う女を、奇っ怪と思うよりも、美しいと思ってしまっていた… 「お主がこの廃屋の怪異か?」と訊ねた庄左ヱ門に、女は背中を丸めて、自分の白い足の上で頬杖をついた。 「怪異?人はわっちをそう呼ぶんでござんすか? わっちはこの置屋に住む、可哀そうな女子でござんすよ」 「この置屋は随分昔に店を畳んだはずだ?残る人など無いだろう? ならばお主は化生の者であろう」 「おやまぁ?潰れたお(たな)に残る健気な女もいるだろうに」  口端を釣り上げて、女は庄左エ門の前に立った。  にっこりと愛嬌を振りまきながら、彼女は直立したままの庄左エ門の堅い手を握って、はだけた襦袢から覗く双丘にいざなった。  女の白い指には口に含んだ時の紅が移っていた。  庄左エ門に触れた女の指先は冷たかったが、襦袢の下の柔い胸には生きている温もりがあった。しっとりとした肌に、彼の指が沈んだ。  慌てて手を引くと、女はケタケタと面白そうに笑った。 「お侍さんは女を知らなかったでござんすか?」とからかわれて、庄左エ門もむっとして笑う女を睨んだ。  (あなど)られるのが嫌な性格の彼にとって、相手が人だろうが化生の者であろうが同じことだ。  赤く(あお)るような襦袢の(えり)をつかんで女を乱暴に引き寄せ、笑う唇を奪った。  女の口にねじ込んだ舌に、干菓子の味の残った甘い舌が絡んだ。 「おやまぁ、お上手」離れた唇から(さえず)るようなお世辞がこぼれた。  その世辞の言葉さえ男を煽るような響きを(はら)んで、庄左エ門の心を逆撫でた。  乱暴に腐りかかった畳に女を押し倒した。  女の黒い髪が畳の上で広がって、その中心に白い笑う顔がある。 「やっとその気になったのでございますか?」  余裕さえ感じられる女は妖艶に男の欲を誘った。 「ようござんすよ。 わっちにできるお礼はこんなもんでござんす。お受け取りなんし」  女は襦袢の下のしなやかな白い太腿が広がり、足は白蛇(はくだ)のように男に絡みついた。  女の誘惑に負けて赤に隠された白い胸元に顔を埋めた。  しっとりとした肌をなぞり、張りのあるふくらみをまさぐると、女は媚びるような嬌声を上げて身体をねじった。彼女の視線は熱を含み、黒い瞳は濡れていた。  庄左エ門がくびれた腰を掴んで、股ぐらに手を突っ込むと女の用意はできていた。  もうどうにでもなれ、という心持で女を抱いた。  置いてくるつもりの干菓子は女の腹の中に消えた。ただで帰るのはもったいない。  (あやかし)であろうと目の前にいるのは確かに女だ。  この際、この体験を土産として持ち帰るのも悪くない。  女の荒くなる息と甘い嬌声に気分を良くして、熱を帯びた身体を重ね、がむしゃらに腰を振った。  昇りつめた快感は頂点に達し、彼女の深い場所で果てた。  とんだ肝試しになったものだ。  乱れた佇まいを整えていると、女の腕が後ろから庄左エ門を抱いた。分け合った熱の分、女の肌は熱く、白い肌はわずかに上気して見えた。 「ご馳走様」と彼女は庄左エ門に礼を言った。その声は先ほどまでの侮るものでは無くなっていた。 「久方ぶりに、生き返った心地でござんした… お侍さんの名前を聞いてもよろしいでしょうか?」 「山本庄左エ門だ」と、背中越しに庄左エ門が応えると、女の小さく笑う気配が背中に伝わった。 「庄左エ門様でござんすね?わっちは《おさや》でござんす」  彼女はしおらしく名乗ると、庄左エ門に「一つお頼みしてもようござんすか?」と訊ねた。 「庄左エ門様を漢と見込んでお願いします。わっちを身請けてくんなまし」 「金なら無いぞ」と即答する男に、彼女はふふっと笑った。 「金ではもう間に合わないのでございますよ。わっちを身請けて寺に届けてほしいのでござんすよ」と寂し気に呟くと、背にすがる女の身体から力が抜けた。  よくよく見れば、彼女の身体は亡霊のように透けていた。  やはり彼女は生きている女ではなかったようだ… 「この置屋の一階に物置がござんす。その床を剥がすとわっちはおりますゆえ…」と言づけて、彼女は赤い襦袢を残して、庄左エ門の前から消えた。  気が付くと、庄左エ門は自分の住む長屋より汚い畳の上に一人座っていた。  おさやのいた場所には、ぼろくなった赤い襦袢と黄色い帯だけが残されていた。  彼女の言い残した伝言が気になって、不気味に軋む階段を下ると、確かに土間の横に物置らしい場所があった。  湿気で浮いた板に適当な棒を差し込み、てこのようにして床板を剥がした。床下の不自然に盛り上がった土を掘ってみると、床下には大きな水瓶が埋まっていた。  これを掘り出すのは一人でするには大仕事だ。しかも、廃屋の中は暗くて手元も悪い。  朝になるのを待って、寺に行って住職に事情を話した。  おさやは無事に寺に引き取られ、庄左エ門の肝試しの話は町人の間で話題になった。  その話は次第に大きくなり、ついには士格(しかく)の身分を持った藩士から庄左エ門を召し抱えたいという話まで出た。  諦めていた出世の道がこんなことで開かれるとは…  あの日から運が巡ってきたように、庄左エ門の周りではすべての事が良い方向に転がった。  それでもふとした時に、あの不可思議な夜を思い出すのだ…  あの廃屋で出会った女の赤い襦袢と白い肌は、彼の心を捕らえて離さないのだ。
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