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「小学生の時に親が離婚して、僕は母親に育てられました。その母が、最近いい人はいないのかってよく聞いてくるんです」
「なるほど」
「僕は今、仕事が楽しくて仕方ないんです。だからそんな気は無いのに、しつこくて…」
大石は苦笑いした。過去の自分と一緒だ。
「それは、辛いですね…。お母様は先生が仕事が楽しくてその気が無いというのは」
「知ってます。でも一人は寂しいからって…自分が離婚して、寂しさを感じる事があるから、同じ思いはして欲しくないと」
「ほう…」
「離婚を切り出したのは父ですが、母に原因があったんです。それを知ってしまってから母の身勝手な発言に余計イライラしてしまって…」
「なるほど…お母様に、原因が?」
和也はコクリと頷いた。
「父は仕事熱心な人でした。だから母には家庭に入ってサポートして欲しいと、母はそれを了承して結婚と同時に勤めていた会社を辞めました」
一つ一つ言葉を慎重に選びながら、淡々と和也は話を進める。
「結婚してすぐ、母は妊娠しました。しかし母にはやりたい事があって通信教育で資格を取り、ブログを始めたんです…そこまでは良かったんですが、ブログが人気が出て、その関連の仕事が来るようになりました」
話しながら、和也は敢えて母親の仕事内容を明言するのを避けているような気がして、大石は黙って頷きながら話を促した。
「結局僕が産まれてから在宅勤務みたいな感じになったんですが、母の仕事が忙しくなり始めた頃、父は仕事でトラブルに遭ったり困難な状況が続いていたんです…。父は帰りが遅くなり、平日顔を合わせる事は殆どありませんでした。父が休日でも母親は自宅で仕事をしていたりとすれ違いの状況が続いた。だから母は、父の様子の変化に気付かなかったんです…」
「…先生も、辛かったでしょう?」と大石が言うと、和也は苦笑いして頭を振った。
「父は殆ど家に居なかったし、休日は僕も母の手伝いなんかさせられていたので正直よく覚えてません…でも、友達から家族で出掛けた話なんか聞くと羨ましいなって思いました」
「お父様は…」
「たまに見かける父は何時も怖い顔というか、思い悩んだような顔をしていました…最後に見た父は、疲れ切った顔をしていた…離婚の原因を知ったのは、つい最近です」
「そう、だったんですね…」
大人の都合に振り回された過去、そこに和也の気持ちは一切入っていない。彼がどんな思いで両親を見ていたのかを思い、大石は静かな怒りを感じた。
「僕が料理教室を始めた頃、何処でその情報得たのか父が職場に訪ねてきて…あの時は済まなかったと、謝られました。そして、何故離婚したかを打ち明けてくれたんです」
きっとそれが、今、和也の父親が和也にできるギリギリのラインだったのだろう。
「母の事は嫌いでもないし、憎んでもいません…ただ、母が父の様子に気付き、仕事をセーブして家庭に目を向けていれば、或いは離婚に至らなかったかも知れないと思うと…」
「…寂しい思いを、されたんですね」
少しの沈黙の後、大石がようやく口にした言葉に和也は黙ってコクリと頷く。
母親の仕事が軌道に乗り始め、そこに父親の仕事のトラブルが重なった。日常の、小さな小さな事の積み重ねが修復出来ない歪みを作ってしまった。
誰が悪いわけでもない。
だから、どんなに苦しくても誰かを、何かを責める事はできないのだ。
この若者は、行き場の無い怒りや寂しさを抱えて生きてきたのか。
そう思うと、大石は胸が苦しくて仕方なかった。
都合良く結婚を利用した自分が恥ずかしい。
「……辛かったですね。ずっとお一人で抱えてこられたのでしょう?」
「……っ!」
長い沈黙の後、大石はようやく言葉を発する事ができた。和也の心情を慮ると、何と言っていいか分からなかったのだ。考えに考えた末の言葉だった。
和也は今にも泣きそうな顔で大石を見ている。
その震える肩に、そっと触れた。
「大石さん…」
溢れた感情が涙となって頬を伝った。
困ったように笑い、大石は涙を指で拭った。
「いつもの笑った先生は勿論素敵ですが、ずっと笑っていては疲れてしまいます。泣いても、いいんですよ…」
大石は和也の目を見て、噛んで含めるように話した。和也の目から溢れる涙は止め処無く。
「はい、お絞り」
黙って様子を伺っていた店主が温かいお絞りを差し出してくれた。
「ありがとう」
大石が礼を言って受け取り、和也に渡す。
渡された温かいお絞りを目元に当て、和也は少し落ち着いた様子だった。
「すみません、みっともない所を見せてしまって…」
「いえ、むしろ安心しました。先生ずっとニコニコしてるでしょ?疲れないかなって心配だったんですよ」
「余計なお世話かも知れないけど」と明るく振る舞う大石に、和也は微笑み返した。
「頑張り屋さんの先生に、私からのサービス」
ニッコリ笑いながら、店主がトン、と二人の目の前に置いたのは肉じゃがだった。
ほわっ、と立ち上る湯気の中にはゴロッと大きめの粉を吹いたじゃが芋、彩り鮮やかな人参、ベッコウ色の玉ねぎに、牛肉、糸こんにゃく。もう、見た目だけで美味しい事が分かる肉じゃがだった。二人は顔を見合わせ、店主を見て礼を言うと、早速箸をつけた。
大きめのじゃが芋は形を残しながらも、ホクホクとして中までしっかり味が染みていた。人参、玉ねぎ、牛肉も言わずもがな、丁度良い塩梅の味付けでいくらでもたべられそうだった。
「美味しい…!」
「ほんと、ホクホクして美味いですね!」
暫く話に夢中で箸が止まっていたが、この肉じゃがを皮切りに再び食べ出した。和也は不思議な事に、先程より腹が減っていた。大石に話を聞いて貰えた事で、スッキリしたのかも知れない。
会話を交えながら、止まることなく箸を動かす。
料理と酒が、殆ど無くなった時だった。
「まだ食べられますか?」
大石に聞かれ、和也が頷くと店主に向かって「鯛茶漬け二つ」と注文した。
「いつも締めはこれなんです」
ニコリと微笑む大石。
今までの料理のクオリティから和也の期待が否応にも高まる。
「はい、鯛茶漬けお待たせ」
暫くしてトン、と置かれた茶碗にはご飯が軽めに盛られており、その上に皮付きの鯛の生の切り身が二切れと三つ葉、茶碗の端には緑色のワサビのようなものが付いていた。
茶碗と同時に、漆塗りの急須のような形をした入れ物に入った出汁も置かれる。
大石に言われるまま鯛の切り身に向かって熱い出汁を注げは、鯛の皮が反り返り生だった切り身に絶妙な加減で熱が入る。
「柚子胡椒はお好みでどうぞ」
茶碗に付いていたのはワサビではなく柚子胡椒だったようだ。大石を見ると半分程を溶かし入れていたので、それに習い和也も半分溶かし入れてサラサラと口に流し込んだ。
「…!」
驚いたように目を見開く和也に、「美味いでしょう?」と大石が嬉しそうに微笑んだ。
急須のような形の入れ物に入っていたのは昆布出汁で、それを鯛にかける事で鯛から出た出汁と相まって極上の出汁になっていた。柚子胡椒のピリッとした辛みが味を引き締め、柚子と三つ葉が風味を豊かにしてくれる。
茶碗はあっと言う間に空になった。
「ああ、美味しかった…ご馳走様です」
「ご馳走様です」
二人は満足そうに溜め息をつくと、箸と茶碗を置いた。身体の中から温まり、腹も心も満たされた気持ちになった。
「今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ!こちらこそ晩酌にお付き合い頂きありがとうございました」
少し躊躇った後、和也はおずおずとスマホを出した。
「あの、大石さんさえ良ければ連絡先を…」
「勿論、いいですよ」
大石は笑顔でスマホを出し、連絡先を交換した。
「良かったら、また飲みにいきましょう」
「はい、ありがとうございます」
大石の言葉に、和也は笑顔で頷いた。
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