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「課長!チェックお願いします」
「ん」
部下から渡されたのは、今度新しく発売されるキッチン用品のPRについての企画書だった。
クリップされた書類をペラペラと捲る。
(料理研究家を起用してのPRか…)
新商品は電子レンジ用圧力鍋だった。既に他社からも同じ様な物が発売しているが、大石の会社の製品は初めてだった。
低価格で軽く、手軽に煮込み料理ができるのが特徴で、電子レンジを使うためガスのように付きっきりになることもない。また、見た目もお洒落だった。
「佐々木涼子先生か…」
「はい、主婦を中心に幅広い年代層の女性から絶大な支持を得ている料理研究家です」
中年男性の大石ですら知っている料理研究家だ。確かに協力してもらえれば宣伝効果は絶大だろう。
「いいんじゃないかな、これでいこう」
「はい!ありがとうございます!失礼します」
企画書に捺印し渡すと、部下はデスクに戻っていった。料理研究家と聞いて、ふと和也の顔が浮かんだ大石はある事に気付いた。
(先生も確か『佐々木』という名字だったよな)
レッスン初日に名前を聞いていて以来、ずっと『先生』呼びだったからすっかり忘れていた。
料理研究家の佐々木涼子と、何か関係があるのだろうか。『佐々木』などありふれた名字だからたまたまかも知れない。現に大石の記憶にある涼子は和也とは違い、華やかな雰囲気を持つ女性だ。それに、離婚したなどという話は聞いたことがない。
(まさか…な。あれ、でも一度スーパーで会った時に先生のお母様の名前を聞いたような…何て名前だったかな…)
「課長!内線2番に田上係長からお電話です」
「分かった」
かけられた声に思考を遮られたが、名前の件が頭の片隅にひっかかって離れなかった。
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「こんばんは~」
「…こんばんは」
「アレッ?和兄元気ない?大丈夫?」
久しぶりにアシスタントとして顔を出した翔真に、和也はどういう顔をしていいか分からず作業する手元に視線を落としたまま挨拶した。
不思議そうにしながらも翔真は支度を済ませ、ホワイトボードを確認する。
「今日の献立は…鱈の油淋鶏風、キャベツと人参と竹輪のコチュマヨ和え、ワカメスープか…何からやったらいい?」
「…とりあえず、副菜の材料を計量して分けてもらえる?」
「了解!」
ホワイトボードに書いてある分量を確認すると、メインキッチンに置いてある材料を切り分けていく。横で作業する和也がチラリと翔真を見た。
「上手くいってるんだって?江藤さんと」
「えっ!…和兄、知ってたの?!」
軽く狼狽した様子の翔真に、落ち着いた様子で「母さんから聞いた」と答えた。
「全然気付かなかったよ」
「それはまぁ…ね、ここではアシスタントと生徒だし、特別扱いできないだろ?」
翔真の言うことはもっともだった。
頷きながら、和也は自分が怒りたいのか、泣きたいのか、責めたいのか分からなくなり黙り込んだ。自分が今どんな顔をしているのかも分からない。
「…もしかして、怒ってる?」
「…え」
翔真が恐る恐る和也の顔を覗き込んだ。
「怒ってるって言うか…そうならそうって、言って欲しかった」
視線を逸らしながら言うと、翔真はハッとした表情をした。
「そうだよな!和兄には協力して貰ったんだから一番に話すべきだった…ごめん」
「もう、いいよ」
翔真は、単純に和也の気持ちに気付いていなかったようだ。気持ちを打ち明けると、申し訳無さそうに直ぐに謝ってくれた。
「アシスタントを続けたいって言ったのも、そのため?」
それが、一番和也が気になっている所だった。
正直、翔真と美和の仲についてはどうでも良かったが、不純な動機で仕事を続けられるのは嫌だった。
「ち、違う!」
慌てて翔真は手を振った。
「仕事に役立つからアシスタントを続けたいのは本当だよ!信じて!美…江藤さんとの事は、アシスタント続けたいって和兄に話した後だったから。タイミングが重なっちゃって…」
しょんぼりしたような表情に、語尾が弱々しくなる。料理に真摯に向き合う和也が最も嫌がる状況になってしまっていたと、翔真は今更ながら気付いたのだ。
和也は一つ大きく息をすると、感情を抑え声を絞り出した。
「どうする?このままアシスタント続ける?」
和也が聞くと、翔真は弱々しく答えた。
「和兄がいいなら、無償でいいから続けたい」
「…分かった」
「その代り、これから先も生徒達に平等に接してね」
「ありがとう…!」
翔真の表情がようやく明るくなった。
レッスンの支度も終わり、時計を見ると18時15分だ。レッスン開始までまだ少し時間がある。
「ところでさ、翔真って何の会社に勤めてるんだっけ?」
「え?あれっ?言ってなかったっけ」
今更ながらの質問に、翔真は目を丸くしした。
「調理器具メーカーだよ。ほら、和兄も使ってくれてるだろ?」
言いながら、翔真はメインキッチンの作業台の上に置いてあるケトルを指さした。
「全然知らなかった…」
唖然とする和也に、翔真は苦笑いした。
「アシスタントの時、生徒さん達が『どんな調理器具があったら便利かな?』『使い勝手はどうかな?』『使いにくい所はないかな?』とか様子を観察してるんだ」
「なるほど…!」と和也は感心し、先程疑ってしまった事を申し訳なく思った。
「さっきは疑ってごめん…」
「うんん、いいって。ちゃんと伝えて無かった俺が悪いんだし」
「和兄は何にも悪くない」と翔真は笑った。
「俺ね、今は広報部にいるんだけど、いつか商品開発部に行く事が夢なんだ…自分の手で、自分が考えた調理器具で料理が楽しくなったり、少しでもラクにしたりして、使う人達を笑顔にしたい」
「翔真…」
料理で人を笑顔にしたい
料理の楽しさを伝えたい
アプローチは違ったが、考えている事は和也と同じだった。目標を語る翔真の目は、子どもの頃のようにキラキラ眩しくて、和也は思わず目を細めた。
「一緒に頑張ろう!」
翔真に向かって拳を突きだすと、ニッ、と笑って翔真も拳を突き出した。コツンと拳がぶつかった時、ドアが開いて生徒が顔を出した。
「こんばんは∼」
「「こんばんは!」」
「あっ、今日は佐藤先生居るんですね!」
嬉しそうな生徒の声に、翔真も笑顔になった。
「はい!一緒に頑張りましょうね!」
「はーい!」
常連の生徒達も、次第に翔真の存在を知り仲良くなってきた。翔真がいると、心なしかレッスンの雰囲気が明るくなる気がする。
和也は翔真と生徒達のやり取りを微笑みながら見ていた。
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