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『今日の献立
•桜エビとネギと榎木のパスタ
•大根とワカメとツナの梅マヨサラダ
•卵スープ』
和也がちょうど献立をホワイトボードに書き終えた時、翔真が部屋にに入ってきた。
「こんばんは∼」
「こんばんは…」
心なしかいつもより翔真に元気がない気がして、和也は準備する翔真をチラリと見た。いつも通り荷物を置いてジャケットを脱ぎ、手洗いをしてエプロンを着ける。いつもなら翔真の方から会話を振ってくるが、今日は終始無言だった。
「どうしたの?何か今日元気ないね」
「え?そう?」
心配そうに声をかけると、翔真はビクッと肩を揺らして反応した。明らかに様子がおかしい。
「体調悪い?」
「うんん、違う…仕事でちょっとね。でも大丈夫!切り替えるから」
「そ?」
「うん!何からやったらいい?」
「じゃぁ、桜エビの計量、ニンニクの皮剥き、榎の石づき取りをお願い」
「了解!」
翔真はパッと表情を切り替え、作業に取り掛かった。しかし、度々様子を伺うと、無意識だろうが事あるごとに思い悩んだような表情になる。
仕事の悩みとなると、一般企業で働いた事の無い和也は気軽に声をかけて相談に乗ることも出来なかった。翔真の様子を気にかけながら準備を進めているとあっという間にレッスン開始10分前だ。
―ガチャ
「こんばんは~」
「こんばんは」
今日一番に顔を出した生徒は美和だった。
先日翔真から美和との仲を聞いた和也は一瞬表情が強張ったが、直ぐに笑顔を作ると穏やかに挨拶した。
「今日のレシピです」
「ありがとうございます!」
和也からレシピを受け取ると、美和はチラリと翔真を見る。翔真の方も美和を見て微かに微笑んだ。しかしそのまま言葉を交わすことなく、美和はレッスンの準備に入る。お互い、レッスン中はきちんと距離感を保つよう徹底してくれているようで、和也は少しホッとした。
翔真は他の生徒達からも人気者だ。生徒の一人と付き合っているなんて事が知れたらどうなるか分からない。和也は今の穏やかなレッスンの雰囲気を壊したくなかった。
「こんばんは」
「こんばんは!」
また一人、また一人と次々に生徒がやってくる。
挨拶し、レシピを渡しを繰り返し…和也は時計を見た。開始時間だ。
(来ない…)
今日は大石の予約が入っていた筈だ。
しかしまだ彼の姿はない。いつもギリギリに聞こえてくる足音もしない。
「それではレッスンを始めます。今日は桜エビを使ったパスタです。乾物なので保存がきき、ストックしておけば思い立った時に有り合わせの野菜と合わせて直ぐに作る事ができます。今日は榎とネギを使いますが、割と何の野菜とも合います…」
(今日はお休みかな…)
にこやかにレッスンを開始したが、その表情とは裏腹に、時間の経過と共に少しずつ気持ちがもやもやしていく。
10分ほど経過していただろうか、バタバタと教室の外から足音が聞こえてきた。その音に、否応にも和也の鼓動が早くなる。
(来た…!)
―ガチャ
「遅れてすみません!」
「大丈夫ですよ。遅くまでお疲れ様です」
ゼイゼイと息を切らして入ってきた大石に、和也は微笑みかけた。他の生徒達も見慣れてきたようで、驚いた様子の新規の生徒を除いては「お疲れ様です∼」と大石に声をかける生徒も居た。
「今日のレシピです」
「ありがとうございます」
和也からレシピを受け取り大石は大急ぎで準備する。その間も、和也は大石から目が離せなかった。席に座ったのを確認して、レッスンを再開する。
「では、続きからいきます」
説明がだいぶ進んでしまった事を危惧しながら、話を再開した。程なくして説明が終わり調理を開始する。今日大石とペアになっていたのは、以前東と知り合いだと言っていた中村だった。
「大石さん、お久しぶりです…私の事、覚えてますか?」
「はい!確か東さんとご一緒した時に紹介して頂いた中村さん、ですよね」
名札も付けているので、お互い直ぐに分かった。大石が中村と会ったのは前回東が居たレッスン以来だった。お互いリピーターだが、ペアを組むのは初めてだ。
「大石さん、説明殆ど聞けなかったですよね?今日は私がメインやりましょうか?」
「ありがとうございます!助かります」
メインのパスタを中村、副菜を大石、スープは手が空いた方でということで分担を決め、調理に取り掛かった。
湯を沸かし、材料を切るなどテキパキと動く中村の横で、レシピを見ながら大石も調理しようとするが、早々に手が止まってしまった。
(ええと、大根はピーラーで削いで…ん?え?削ぐ?皮を剥くんじゃなくて?)
「今日のサラダは、大根は切らずにピーラーで薄く削いでいくんですよ」
「先生!」
説明を余り聞けなかった事を心配し、和也は一番に大石のフォローに入っていた。「いいですか?」と大石から大根とピーラーを貰うと、大根を少しずつ回転させながら面を変え薄く削いでいく。その手捌きのあまりの鮮やかさに、隣で調理していた中村が思わず見惚れている。大石も、「ほぅ…」と感嘆の声を漏らした。
「面を変える事で、幅が太くなりすぎるのを防ぐ事ができるんです」
「なるほど」
「では、やってみて下さい」と再び大根とピーラーを差し出され、大石は先程の和也の動きを思い出しながら真似する。
「こうですか?」
「そうそう、上手です」と、和也は頷きながら様子を見守る。
「あ、それから聞けなかった前半の説明なんですが、ご都合が良ければレッスン後に少しお時間頂いてもいいですか?」
「勿論です!お手数かけてすみません、ありがとうございます」
「いえいえ」
ぎこちない大石の手付きで大根を削いでいた大石に「怪我しないように気を付けて下さいね」と声をかけ、和也は他の生徒のフォローの為テーブルを離れていった。
「先生って、本当によく私達の事を見てくれてますよね」
中村の言葉に、大石は力強く頷いた。確か同じような事を江藤も言っていた気がする。
細やかな気配り、心配りは幼い頃より母親の手伝いで大人社会に触れ培われたものなのだろう。彼の母である涼子は人気がある一方で、仕事には一切妥協しない事でも評判だ。
(今回のPRの件も、何か先生なりに考えがあるのだろうか…)
ふと仕事の事を思い出し、頭を振った。
今は目の前の料理に集中だ。ピーラーを使って削いだ大根をザルに入れ、湯を沸かす。その間にワカメを戻し、梅干しの種を出して細かく刻みマヨネーズと和えておく。湯が沸騰したら、シンクの中でザルに入った大根に少しずつかけていく。
かけおわったらキッチンペーパーでしっかり大根の水気を切り、戻して水気をとったワカメとツナ、梅マヨを入れて和えたら完成だ。
(よし、何とか出来たぞ…)
作業が終わって中村の方を見ると、丁度パスタと桜エビなどの具材をフライパンで混ぜ合えている所だった。そのフライパンの隣には、スープの鍋から湯気が上がっている。しかし鍋の近くには、まだ割られていない卵が置いてあった。
「中村さん、スープはあと卵だけですか?」
「すみません!そうです!お願いしてもいいですか?」
「大丈夫ですよ」
大石はにこやかに返し、手早く卵を割りほぐす。
スープが沸騰しているのを確認して、慎重に少しずつ卵を垂らしていった。すると、鍋の中にふわぁっと黄色の花が咲く。
(上手くできた)
大石は思わずニンマリした。以前レッスンでかき卵の上手な作り方を教えて貰ってから、家でも何回か作っている。上手くできると、嬉しくてその都度笑みが溢れてしまう。
「わ!美味しそう!」
鍋を覗き込んだ中村が歓声を上げた。「ありがとうございます」と大石も満更でもない様子だ。
「さ、試食に移りましょうか」
テーブル毎の進行具合を確認して和也が声をかけた。
「いただきます」
全員で合掌し、試食が始まった。
目の前の料理はどれも美味しそうで、大石は毎回の事ながらどれから食べようか迷ってしまう。悩んだ末、まずはパスタを口にした。
(桜エビ…小さいのに凄い風味だ…!)
ガーリックオイルで香りが出るまで炒めた桜エビの風味が口の中一杯に広がる。ネギの香味に、シャキシャキした榎の食感が楽しい。軽くブラックペッパーを振れば、ピリリとした辛味が後を引き食べる手が止まらない。
「美味しいですね!」
「はい!」
中村に話しかけられ、大石は笑顔で答えた。
「まさか昆布茶をパスタに使うなんて考えもしませんでした」
「えっ?!」
説明を少ししか聞けず、来て殆ど直ぐ調理に入ってしまったため、自分の担当するレシピ以外は確認していなかった。大石は慌ててレシピを確認すると、確かに桜エビのパスタには少量だが昆布茶が入っている。
「桜エビ、風味や香りは強いんですが、コクや旨味を出すために少しだけ加えるんですよ」
「なるほど!」
隣に座る和也が補足説明をしてくれた。相変わらず周りをよく見ている。
大石は今更気付いたが、今日は以前一度だけ会った佐藤という先生も来ていた。他の生徒と談笑しながら和気あいあいと試食をしている。改めて見ると、レッスン内容以外余り喋らない和也とはタイプが真逆のようだった。聞こえてくる会話は料理に関する事より、世間話的なものの方が多いような気がする。コミュニケーション能力は高そうだった。
自分で作った大根サラダも、上手にできたかき卵が入ったスープも全部美味しく、今日も大満足だ。
「ごちそうさまでした」
ふう、と食べ終わった大石は息をついた。
正直今朝の事があり、今日はレッスンに来るまで気持ちが重たかったが、いざ調理を始めると夢中になり嫌なことはすっかり頭から忘れ去られてしまっていた。一瞬仕事を思い出してしまったが、出来上がった料理を食べて満腹になれば、満たされた幸せな気持ちになれる。
束の間の幸福感に浸りながら、ふと和也の方を見ると目が合った。ふわりと微笑まれ、心臓が跳ねる。
(いやいやいやいや…)
大石は思わず赤面してしまった。
今まで何度も見ている筈なのに、何故鼓動が早くなるのか。仕事で後ろめたい事があったから?否。不快ではないこの感情に大石は戸惑ったが、ぎこちなく微笑み返した。
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