味見をどうぞ

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ヴーッヴーッ 涼子が夕飯の支度をしていると、スマホのバイブが着信を知らせた。 「取ろうか?」 仕事の打ち合わせがてら夕飯を食べに来ていた紀子は眼鏡を外し、仕事の書類から涼子に視線を移した。 チラリと画面を確認すると、翔真からだ。「うんん、大丈夫」と言うと急いで濡れた手を拭き、画面をスワイプした。 「…もしもし」 「もしもし、涼子さん?!俺、やったよ!」 「え?」 「和兄が仕事受けてくれるって!!」 「そう!良かった…!色々ありがとう…」 「俺より課長だよ。めっちゃ格好良かった…!俺も課長みたいな仕事も出来て人望も得られる人になりたい」 「新しい目標が出来たわね…翔真も頑張って」 「うん!因みにさ、和兄がこの仕事やるって事を涼子さんは知らないって設定のがいいんだよね?」 「設定って」笑いながら涼子は続けた。 「そうね。和也から話してくれるまでは知らないフリをするわ」 「了解!じゃぁ、またね!」 プツン、と通話が切れた。 歓喜と安堵が混じったような涼子の表情を、紀子は不思議そうに見詰める。 「翔真から?珍しいね」 「うん…仕事の話でちょっとね」 涼子はそう言いながら、夕飯の支度を再開した。 「えー!翔真が涼ちゃんに仕事の話だなんて百年早い!」 驚いたような紀子に、笑いながら答えた。 「翔真、頑張ってるよ?まだまだ詰めが甘かったけど、それは和也も同じ。まだ若いもの」 「それで、仕事の話って何?」と紀子に突っ込まられ、涼子は翔真の会社の商品を和也がPRする事になった旨を伝えた。どのみち、涼子がPRのことを知っていると和也に知られないよう口止めが必要だった。 「へぇー!あの和也がね…何か不思議な感じ」 話を聞いて開口一番、紀子は感慨深げに言った。 幼い頃から和也を見ている紀子もまた、和也の苦手な部分を知っていたから尚更だ。 「何かさ、思い出すね」と紀子は仕事の書類をしまいリビングの椅子に座った。 「私は食品メーカーだったけど、ちょうど人気が出てきた頃の涼ちゃんと一緒に新商品のPRして」 「あったねぇ、そんな事…ってか、それが始まりか」と笑いながら涼子は出来上がった料理を運ぶ。 「そうそう。あまりの涼ちゃんの仕事っぷりに脱サラするから料理教室やろう!って、私が勢いで話持ちかけて」 「ほんとほんと!需要あるのかも分からないのにさ」 「需要があったから『やろう!』って言ったのよ。涼ちゃんのイベントが終わってから『料理教室はやってないのか?』って問い合わせ凄かったんだから」 「有り難い限りで」 ふふふ、とお互い顔を見合わせて笑い合った。 何時の間にか、食卓には湯気を立てた料理達が並んでいる。 「食べよっか」 「ん」 「「いただきます」」 二人して夕飯を食べ始める。 お互い息子が家を出てからは、こうして涼子の家で2人で夕飯を摂ることが度々あった。紀子の旦那は仕事で夜遅く帰宅する事が多い。また、世話好きで面倒見が良く、後輩達を連れてよく仕事後飲みに行っていた。 「紀ちゃんのあの一言が無ければ、今は無かったんだよね…」 筑前煮をつつきながらしみじみと呟く涼子に、紀子は苦笑いした。 「めちゃくちゃ大変だったけどね」 「よく旦那さんOKしてくれたよね」 「私がこんな性格だって知ってて結婚したからね。止めても無駄だと思ったんじゃない?」 そう言って熱い味噌汁をすすり、ご飯を口に運んだ。今日の味噌汁の具は、白菜と油揚げにワカメだった。寒くなってきた昨今、白菜は甘みが増して益々美味しくなる。 「『何とかなる』で、ここまでよくやってこれたよね」 笑いながら涼子が言うと、紀子は驚いたように顔を上げた。 「いやいや、確かに『何とかなる』精神ではあったけど、それは涼ちゃんが『何とかなる』ように頑張った結果なんだよ?」 「え?」 気付いて無かったのかとでも言わんばかりに、紀子は呆れ顔になった。 「あのねぇ、流石に何の考えもなしには何とかならないよ?私には万が一何かあっても旦那って保険があるけど、特に涼ちゃんなんか離婚したばっかりで生活かかってた訳だし。私も言い出した手前必死だったけど、あの頃の涼ちゃん、本当に毎日ギリギリの状態まで頑張ってた」 「紀ちゃん…!」 「やだ!ちょっと泣かないでよ!」 気丈な涼子の目から大粒の涙がポロポロ溢れ、紀子は慌てた。 「ごめん、何か、和也の仕事も決まってさ、ホッとしたのもあって、何か、色々…」 「うん、分かるよ…頑張ってきたもんね」 「食事中にごめん」と箸を置き口元に手を当てながら、涼子は静かに嗚咽を漏らした。紀子は頭を振る。 「うんん、泣きたい時は泣いたらいいよ」 「うん、ありがとう…」 紀子は箸を置き、向かいに座る涼子の隣に座ると涼子が落ち着くまで優しく背中を擦り続けた。 _________________________________________________ 商品PRが決まってからというもの、和也は今まで以上に忙しくなった。元々遅れ気味であったため、発表会までのスケジュールはかなりタイトなものだった。 料理教室の合間をぬってレシピの考案、商品PRポスター用の写真撮影、発表会に向けての打ち合わせなど、それこそ目が回る忙しさだった。 どれも初めて経験する事ばかりで、戸惑いながらも和也は一生懸命取り組んだ。大石と翔真も他の仕事を抱えながら、和也が参加する撮影や発表会の打ち合わせには出来る限りどちらかが付き添うようにしていた。翔真に至っては、少しでも和也が楽になるようにとアシスタントに入る回数を増やしていた。 「…和兄、和兄?」 「あっ、ごめん。何だった?」 夜の部のレッスンの支度中、ぼぉっと遠くを見詰める和也に気付き翔真は声をかけた。 「手、止まってる。大丈夫?」 「うん、大丈夫大丈夫」 慌てて作業を再開する和也を見て、翔真は小さく溜め息をついた。 「俺から仕事頼んどいて何だけど…和兄、やっぱ疲れてるよな」 「まぁ、ちょっとね。でも、大丈夫だから」 力なく笑う和也に、翔真は益々心配になる。 「あとこんだけ?俺にやっとくからちょっと座ってなよ!」 「え?いいよ、大丈夫」 「いいから!任せとけって!」 そう言って無理矢理メインキッチンの横にある丸椅子に座らせると、翔真は準備を再開した。手伝いできるのは夜の部だけだ。昼の部は相変わらず和也一人でまわしているため、自分が手伝える夜の部で少しでも休んで貰いたかった。 「ありがとう」と微笑むと、和也は軽く目を閉じた。帰ってからもレシピを考えたり、発表会で話す内容を考えて書き出したりと睡眠時間を削って準備を進めていたのだ。 (そう言えば、最近レッスンで大石さん見てないな…) うつらうつらしながら、気が付くとそんな事を考えていた。あれから大石は複数の仕事が重なり忙しくなったようで、レッスンには顔を見せていない。会ったのは打ち合わせの時だけだ。しかもそれも1度きりで、後は翔真が立ち合っていた。 (会いたいな…) 目まぐるしい日々の中で、あの、穏やかで優しく包み込んでくれるような雰囲気がむしょうに恋しくなった。 ふわふわと現実と夢の間を漂っていると自分を呼ぶ声が聞こえてきた。 「…に、和兄!時間だよ」 ゆっくり目を開けると、翔真が困ったように笑った。 「ちょっとは休めた?」 「うん、ありがとう」 和也は大きく伸びをして立ち上がった。 時計は18時15分過ぎ。そろそろ生徒達が来る時間だ。チラリと時計を確認した翔真が、「ちょっとごめん」と言うと手荷物から自らのスマホを取り出す。 「どうかしたの?」 「ん、いや、何でもない」 サッと何やら操作すると直ぐに戻ってきた。 ―ガチャ 「こんばんは∼」 「「こんばんは!」」 やってきた生徒を、二人は笑顔で迎えた。 今日のレッスンは新規が居ない。気が抜ける訳では無いが、少しだけ気持ちが楽だった。 「お疲れ様でした!」 「ありがとうございました!」 最後の生徒を見送り、ドアを閉めると和也と翔真は清掃に入った。最近この時間になると、和也は少し眠たそうだ。チラチラと翔真が和也の様子を窺いながら床をはいていると、控え目な足音が聞こえ、和也は顔を上げて翔真を見る。 「誰だろう…」 不安そうな和也とは対象的に、翔真は口元に薄っすら笑みを浮かべていた。 ―ガチャ 「夜分にすみません」 「大石さん…?!」 ドアが開き、現れたのは大石だった。 和也は驚きの余り掃除の手が止まってしまった。翔真がサッと近付き、和也の手から布巾を取ると「後は俺がやっとくから」と和也と大石を教室の外に押しやった。大石と和也は顔を見合わせる。 「え…と…今日は、お仕事ですか?」 「いや、和也先生の様子がどうしても気になってしまって…迷惑を承知で来てしまいました」 大石も忙しいだろうに、この時間ということは、わざわざ残業後に来てくれたのだろう。困ったように笑う大石に、和也の心臓は大きく波打った。 「そんな!迷惑だなんて思いません!来て下さって嬉しいです。ありがとうございます」 「だいぶ疲れが溜まってる様子だ…仕事の事で無理をさせてしまい申し訳ありません」 大石が心配そうに顔を見ると、和也は頭を横に振った。 「いえ!仕事を受けたのは僕ですから、大石さんが謝る事じゃないです」 「本当はもっと色々お手伝い出来るといいのですが、私も忙しくなってしまって…」 「いえ、こうして気にかけて下さるだけで充分です」 本心だった。 会いたいと思った時に、偶然にも会うことができた。それで充分心が満たされたのだ。 「大石さんこそ、忙しくなってお疲れじゃないですか?」 「いや、和也先生の忙しさを思えば何ともありませんよ」と大石は微笑んだ。 ああ、この声。 この表情。 この雰囲気。 ぎゅぅ、と胸を締めつけられるような愛しさが込み上げた。 (僕は、大石さんの事が好きなんだ…) 「……先生?」 男で、歳上で、生徒で、ビジネスパートナーで。 そんな人を、好きになってしまった。 触れたいと、思ってしまった。 これは、許される事なのだろうか。 戸惑う和也の表情は苦しげで。 言葉を上手く発する事も出来なくて。 「すみません、ちょっと失礼します」 「え…」 そう言うと、大石は和也を優しく包み込む。 和也は驚き、されるがまま動けずにいた。 「突然すみません…あまりに辛そうだったので見ていられなくて…」 和也の鼓動が一気に高鳴り、おずおずと和也は大石の背中に手を回した。大石の優しさが、和也の胸を甘く苦しく締め付ける。 ずっとこうしていたい気持ちを押さえ、深呼吸すると和也は口を開いた。 「ご心配かけてすみません…もう、大丈夫です」 そう言うと、ゆっくり大石は身体を離した。 まだ心配そうな顔をしている彼に、和也は無理矢理笑顔を作った。 「発表会が終わって大石さんのお仕事が落ち着いたら、また飲みに行きませんか?」 「はい、是非…!」 大石は嬉しそうに微笑んだ。 「キッチンの最終確認と施錠があるので戻りますね」 「はい、それでは私も失礼します」 「気を付けて」 和也の言葉に大石は頭を下げると、踵を返す。 その背中が見えなくなるまで、和也は大石を見送った。
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