味見をどうぞ

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(勢いだったとはいえ、何てことをしてしまったんだ…) 帰り道、先程の自分の行動を思い出し大石は歩きながら一人顔を赤くした。 この日、残業をしていると一通のライン通知が入った。確認すると、翔真からだ。 『今日アシスタントに来ていますが、和也先生かなりお疲れのようです。発表会まで後一週間、しっかりサポートしたいと思います』 (無理もない…) 大石は小さく溜め息をついた。 通常の料理教室のレッスンは休むことなく、こちらが依頼した仕事をこなしてくれているのだ。撮影に、打ち合わせに、レシピの考案…忙しくない筈が無かった。 大石は出来る限りサポートしたかったが、タイミング悪く自分の仕事も立て込んでしまい1回しか打ち合わせに参加出来ていない。連日残業が続き、料理教室の方にも顔を出せていなかった。そんな折に、翔真からのラインである。 (心配だ…) かといって、自分が何か出来る訳ではない。 現に今日も残業でまだ会社に居る。しかし、一度気になり始めるともう駄目だった。心配が、いつしか会いたい気持ちに変わっていく。 (少しでもいい、顔が見たい…) チラリと時計を見る。 レッスン終了までに、間に合うだろうか。 大石はいつも以上に集中してパソコンに向かう。 何とか仕事を終わらせると小走りで会社を後にした。 息を切らしてキッチンスタジオに着くと、まだ灯りがついていた。 (良かった…間に合った) 深呼吸を繰り返し息を整えると、教室へ向かって歩き出す。まだ仕事中の和也に、「ただ顔が見たかった」という理由だけで来てしまった自分が急に恥ずかしくなって、心なしかゆっくりした足取りになる。 ―ガチャ 「夜分にすみません」 「大石さん…?!」 案の定、和也はものすごく驚いたようだ。 しかし、久しぶりに顔が見られて大石は素直に嬉しかった。何週間かぶりに見た和也は、少し痩せた気がする。翔真からのラインにあった通り、眠たそうな表情には疲れが見え隠れしていた。 お互い言葉を発せずにいると翔真が近付いてきて、あれよあれよと言う間に二人して教室の外に追いやられてしまった。 「え…と…今日は、お仕事ですか?」 「いや、和也先生の様子がどうしても気になってしまって…迷惑を承知で来てしまいました」 仕事で来たわけではなかったが、単純に「顔が見たかった」と言う訳にはいかないので大石は曖昧な返事をした。すると、迷惑ではない、来てくれて嬉しいと慌てた様子をで言ってくれた和也を見て、社交辞令でも嬉しいと思ってしまった。 「だいぶ疲れが溜まってる様子だ…仕事の事で無理をさせてしまい申し訳ありません」 仕事を依頼したのは自分のくせに、矛盾していると思いながらも謝らずにはいられなかった。 和也は、大石のせいじゃないと言い、寧ろこちらの忙しさまで気遣ってくれた。 (優しい人だ…) しかしその直後に会話が途切れ、みるみるうちに和也の表情(かお)が疲れたものから辛そうなものになっていく。 (どうしたんだ?大丈夫かな?よっぽど疲れているんだろうか…でも、何か違う気もするが…) 色々考えを巡らせたが、もう耐えられなかった。和也の表情にギュッと胸が締め付けられ、気付いたら身体が動いていたのだ。ほぼ無意識だった。 おずおずと回された和也の手に、大石の方が泣きそうになった。疲れだけでは無さそうな様子に、何があったのか気になったが「大丈夫」と言われ、それ以上聞く事が出来なかった。 「発表会が終わって大石さんのお仕事が落ち着いたら、また飲みに行きませんか?」 「はい、是非…!」 意外な誘いに思わず笑顔になったが、そう言った和也の笑顔はどこかぎこちない。発表会が終わりこの忙しさを抜けたら飲みに誘ってみよう、と大石は心に決めた。 先程の腕の温もりを思い出し、胸がいっぱいになる。和也を想う、この気持ちは何なのだろうか。 一緒に仕事をしているから気になるのだろうか… (とにかく今は、何としてでも、発表会を成功させる事を考えよう…!) そうしたら、この気持ちの正体も分かるのかも知れない。様々な人の思いを背負う発表会は一週間後に迫っていた。
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