味見をどうぞ

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「お疲れ様でした」 「…お疲れ様でした」 和也は控え室の椅子にフラフラと力なく座ると、目の前の机に突っ伏した。その様子に苦笑いしながら、大石はペットボトルのお茶を和也の横に置くと口を開いた。 「今日は、本当にありがとうございました」 「いえ…」 「発表会、素晴らしかったです。私も仕事を忘れてついつい料理に没頭しそうになりましたよ」 「本当ですか?」 その言葉に、和也は上体を起し大石を見る。 「はい、レシピも覚えられましたし、楽しませて頂きました」 「良かったぁ…」 疲れ切った顔で微笑む和也に、「今日はゆっくり休んで下さい」と大石が声をかけた時だった。 ―コンコン ノックの音に、二人は顔を見合わせた。 「どうぞ」 「失礼します」 「あれ?佐藤くんじゃないか。表の案内は?」 入ってきたのは表で案内係をしている筈の翔真だった。 「すみません、すぐ戻ります。どうしても、こちらに案内して欲しいという方がいて…」 「でも、こちらへは関係者以外」 「すみません、私が翔真に無理を言ったんです」 翔真の後ろから姿を現したのは涼子だった。 「母さん…!」 「涼子先生…!」 「すみません、表の案内があるので失礼します」と翔真はその場を去った。 「先生、こちらにどうぞ」 「いえ、直ぐに失礼するので」と涼子は椅子を辞退し、改めて和也の方を向いた。 「まずは、お疲れ様」 「ありがとう…てか何でここに居るの?」 「まぁ、色々あって」 「翔真でしょ」 発表会の事は、涼子に直接話していない。翔真にも特に口止めした訳ではなかったので、情報を流しているとしたら翔真しか居なかった。非難めいた顔の和也に、涼子は困ったように笑いかけた。 「翔真を責めないであげて。私が色々聞いたのよ」 「ふぅん。で?」 和也が聞きたかったのは、ここに来た理由だ。 涼子は和也を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。 「今日の発表会、良かったわよ。レシピやデモンストレーション、そして雰囲気もね。大人数の前に出るのは昔から苦手だけど、できたじゃない。和也の料理で皆が笑顔になったのを見られて、私も嬉しかったわ」 「…大石さんや翔真のお陰だよ」 和也は苦笑いした。過大評価しすぎだと。 堪らず大石が口を挟んだ。 「すみません、黙って聞いているつもりだったんですが…和也先生、私達は先生のお手伝いをしただけです。あの会場の笑顔は、先生が作り出したものなんですよ」 その言葉に、涼子も頷いた。 「私も紀ちゃんと色々発表会をやらせてもらったけど…アシスタントの立ち回りは確かに大事。でも、最終的に会場全体の雰囲気、しいては成功するかどうかは和也にかかってたのよ」 「よく頑張ったね」と涼子は母親の顔になって笑った。和也は何と言っていいか分からず、揺れた瞳でじっと涼子の顔を見ていた。 「さて…お疲れだろうし、そろそろ行くわ。あ、あと、大石さん、和也のサポートありがとうございました。翔真じゃなくて大石さんが出てきたからビックリしちゃった」 大石を見ながら涼子は可笑しそうに笑った。 大石は照れたように笑い返す。 「佐藤にやらせてもよかったんですが…この商品は料理に不馴れな人でも簡単に使える、という事をアピールしたかったので敢えて私が出たんです」 「お恥ずかしい限りですが」と言う大石に涼子は頭を振った。 「いいえ、それで良かったと思うわ。流石大石さん!これからも和也を宜しくね」 言いたい事だけ言ってしまうと、「じゃぁね!」と涼子は控え室を後にした。 「…素敵な、お母様ですね」 「どうだか…」 静かになった控え室で大石が微笑みかけると、和也は揺れた瞳のまま困ったように笑った。その顔は涼子にそっくりで。思わず大石は「ふふっ」と声を漏らした。 「あ、そうそう。今日は先生お疲れだと思いますし、また日にちを改めて打ち上げがてら飲みに行きませんか?」 「ありがとうございます、行きたいです!」 大石の提案に、和也の表情がパッと明るくなる。 「なら、また都合のいい日を連絡下さい」 「分かりました…あの、大石さんはいつぐらいなら仕事が落ち着きそうですか?」 「私ですか?えーっと…」 和也に合わせるつもりだったため、全く気にしていなかった大石は慌てて自分の仕事スケジュールを思い出す。 「私も少しずつ落ち着いてきたので…そうだな、一週間後とかどうでしょうか?その日が仕事でも、お互い休みの日の前日なら気持ち的にゆっくり話せますし」  発表会前、残業後に和也の元を訪れた時のあの辛く苦しそうな和也の様子がずっと引っ掛かっていた。何か力になれるなら、なるべく早く話を聞きたい。それに、発表会が成功した余韻がある内に行きたかった。 窺うように和也を見ると、彼は大きく頷いた。 「大丈夫です!」 「良かった。なら、詳細はまた連絡しますね」 「分かりました!ありがとうございます」 ヴーッ、ヴーッ 和也が返事をしたのとほぼ同じタイミングでスマホが着信を知らせ、大石が画面を確認する。 「すみません、呼び出しがあったので行きますね。今日は恐らくもうこちらには戻って来れないかと…」 「僕は大丈夫です…また、一週間後に」 「はい、それでは」 そう言うと、大石は控え室を後にした。 ______________________________________________ イベントが終わり、和也は持ち込んだ調理器具を片付けにいつも使うキッチンスタジオに戻ってきた。 既に日が傾きかけている。 スタジオの大きな窓から夕陽が差し込み、生徒用のステンレス製ミニキッチンを茜色に染め上げた。 (やっぱり、ここに戻ってくるとホッとするなぁ…) 和也は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。 「ただいま」 誰も居なかったが「おかえり」と言われた気がした。暫くぼぉっとスタジオ内を見詰めていると、脳裏にいつもの教室の様子が浮かぶ。 生徒達が真剣に話を聞く様子、作業する様子、試食での談笑…一つ一つがまるで映像のようにくっきりと頭の中で再生されていく。 次、生徒達の前に立つ自分は何か変わっているのだろうか。 和也はそっと、メインキッチンに触れた。 ステンレスの冷たい感触が頭の中の映像を消していく。目を閉じると、今度は今日ステージの上から見た景色が再生された。 フラッシュの光、向けられたカメラ、そして、たくさんの人が試食で見せた笑顔… もう一度目を開くと、生徒達の笑顔とそれが重なって、和也はたくさんの笑顔に包まれた。 見た目やレッスンの中身が変わる訳ではない。 しかし、和也は以前より少しだけ自分に自身を持つことが出来たように感じた。 「和兄!お疲れ様!」 「翔真!」 調理器具を片付けスタジオを出ると、日はとっぷりと暮れていた。少し離れた所から、翔真は小走りで和也に駆け寄る。 翔真は発表会で案内や裏方をしていた為、結局涼子を控え室に案内した後はお互い一度も会うことが出来なかった。 軽く息を切らしながら「間に合った」と微笑む。 「お疲れ様。もう仕事は良かったの?」 「うん、一度会社戻って聞いたら報告書は明日でいいって言うからさ。それよりこれ、和兄に見せたくて」 「どうせSNSとかやってないでしょ?」とスマホを取り出すと画面を開く。 「今日の発表会、凄く反響が良かったんだ!」 「そんなに…?」 興奮ぎみで話す翔真に、和也は半信半疑で差し出された画面を一緒に覗き込む。「発表会ありがとうございました」のタイトルと共に投稿された発表会の動画を含むツイートには何件もコメントがつき、リツイートも多数されていた。 『圧力鍋マジやばい欲しい』 『えっ、こんな初心者でも使えんのすげぇ』 『料理美味しそう!』 『作りたい』 『え草ガチの初心者草』 『先生の手作り食べたい!』 『何か楽しそう。一般向けにイベントやらんのかな?』 嬉しいものからちょっと首を捻るものまで色々あったが、ネガティブなコメントは殆ど無かった。良いことなのだろうが、今一実感がわかず曖昧に笑う。 「商品の予約問い合わせも、もう何件か貰ったんだ。本当に和兄のお陰だよ、ありがとう!」 「役に立てたのなら良かった」 「あれ?そう言えば課長は?」 「発表会が終わってから仕事の電話が入って、控え室出てったよ。それきり」 「えー!てっきり和兄とメシでも行くのかと思ったのに」 何故か不満気な翔真に、和也は苦笑いした。 「大石さん今忙しいんでしょ?仕方ないよ…それに、一週間後だけど飲みに行く約束はしたよ」 「えっ!本当!良かったね和兄!」 「え?…ああ、うん」 先程までの翔真の表情が嘘のように明るくなる。まるで自分の事のように怒ったり喜んだりする彼を不思議な気持ちで見ながら、そう言えばと和也は口を開いた。 「…母さんの事、ありがとう」 言葉は少なかったがそれで全て伝わったようで、翔真は苦笑いした。 「怒られるかと思った」 「うん。最初は余計な事言ってって思ったけど…最終的には、良かったと思ってる」 「うん…」 「あの時、大石さんや翔真が必死になって僕にこの仕事を受けるよう説得してくれた事…感謝してる。ありがとう」 「和兄…」 ヴーッヴーッ 翔真のスマホが着信を知らせた。 「出なくていいの?」と和也に言われ、慌ててろくに見ないまま画面をスワイプする。 「もしもし?あっ、美和!?ごめん、ちょっと仕事が長引いてたんだよ、うん、うん、もう終わったからすぐ行く。また後で!」 そう言って通話を終了すると、「江藤さん?」と和也に突っ込まれ困ったように笑って頷いた。 「てっきり和兄は課長とメシ行くと思ってたから声かけちまったんだ…あ!どうせなら一緒に…」 翔真の誘いに和也は頭を振った。 「うんん、僕はいいよ。発表会まで忙しくてあんまり会えて無いんでしょ?二人で楽しんでおいでよ」 「う…っ」 図星だった。 それに、今回の電子レンジ圧力鍋のPRには少なからず美和の会社も関わっている。プチ打ち上げという代議名分で食事デートに誘っていたのだった。 「ほら、早く行ってあげな」 「うん…ありがとう。和兄も上手くいくといいな!」 「え?」 ポカンとする和也を見て、翔真はニヤリと笑った。 「課長とだよ!一週間後、頑張ってね!」 それだけ言うと「じゃぁね!」と駆け足で去っていってしまった。少し間を置いて、和也は、その場でこれ以上無いくらい頬を赤く染めた。
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