味見をどうぞ

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―カランカラン 翔真が約束の店に到着すると、窓側の席に座った美和がヒラヒラと手を振った。 「お疲れ」 「遅くなってごめん」 「うんん、大丈夫」 「飲むでしょ?」と言いながら座ったばかりの翔真にメニュー表を差し出す。 「ん∼やっぱり最初はビールかな」 「OK。あと、鶏のカチャトーラとポルチーニのクリームパスタ頼んどいた」 「ありがとう!」 約束していたこの店は、二人行きつけのトラットリアだった。月に2、3回は必ず訪れており、定番メニューは大体覚えている。季節限定メニューなどもあるが、その中でもこの2品だけは来ると必ず頼んでいた。 注文したビールがサーブされ、軽く乾杯する。 「あ〜!ビール美味っ!」 「仕事後のビールは格別だね!」 二人して一気に半分近くを飲み干す。 「腹減ったぁ」と言いながら翔真はお通しのグリッシーニに手を付けた。美和が少し身を乗り出す。 「で。先生は?大石さんとご飯?」 「それがさぁ、課長が忙しくってメシ行くの一週間後なんだって」 翔真が呆れたように言うと、美和が「だったらこっちに呼べば…」と言いかけて、何かに気が付いたようにハッとした。 「生徒の私がいたらゆっくりご飯食べられないか」 「ん?あ、まぁ…」 まさか自分達に気を遣ってくれたとは言えず、翔真は苦笑いして曖昧な返事をした。 「それにしても今日の発表会、成功してよかったね!」 美和もグリッシーニに手を伸ばした。 実は今日、美和も仕事であの発表会の会場に来ていたのだ。勿論、デモンストレーションで必死だった和也と大石は気付いていない。 「大石さんとやり取りしながらだったから、優しそうな笑顔とか、細かいフォローや説明とか…いつも通りな感じだった」 うんうん、と頷きながら翔真は得意げに言った。 「料理教室風のデモンストレーションは課長が提案したんだ。生徒役も自分で買って出たんだよ」 「えっ!」 「お待たせしました、ポルチーニのクリームパスタです」 「…あ、ありがとうございます」 美和が小さく叫んだ瞬間に料理がサーブされ、彼女は思わず恥ずかしさに頬を染める。翔真がクスクスと笑うと「もぅっ!」と美和は膨れっ面になった。取皿を手にすると、翔真の分と自分の分を取り分ける。 「ありがと。 …課長のあの初心者感が良かったんだろうな。まぁ実際全く料理が初めてではない訳だけど…共感の声が凄かった」 「翔真が生徒役やってたらああはならなかったよね」 「うん。中年で、しかも男性が料理するって意外性も注目されるし」 「私はレッスンで見慣れてきちゃってるけど、やっぱり珍しいんだね」 美和の言葉に頷きながら、翔真はパスタを口にした。 アシスタントに入るようになって数ヶ月、翔真はまだ男性の生徒に会った事はない。和也いわく、全く来ないことは無いらしいのだが、年間で数える程しかない。それも大体1回来て終わる。大石のような継続するケースは稀だった。 「観客席に居て周りを見てたけど、先生の料理を皆美味しそうに食べてた。やっぱり、和也先生って凄いね!」 「うん」 その言葉は嬉しかったが、発表会の為に和也がどれだけ準備をしてきたか、心身共に削ってきたかを知らずに言っていると思うと、複雑な気持ちになった。 心苦しいが、これが現実だ。普段のレッスンだって和也は念入りに準備をしているが、生徒達は誰一人知らない。唯一気付いたのが大石だった。 『人の前に立つ人間は、人以上に努力しなければいけない、そしてその姿は見せない』 今回間近で和也を見ていた翔真は、和也の背中からそう学んだ。人の前に立ちたければ、同じ事をしていては駄目なのだ。それ以上の努力をして、初めて人の前に立つ事が出来る。自分の仕事に関して言えば、自分がいくら頑張ってもどうにもならない事もある。しかし、小さくても積み重ねていけば道は拓けてくるのではないだろうか。 「お待たせしました、鶏のカチャトーラです」 ウエイターの声に思考が中断される。 料理を取り分けながら美和が苦笑いした。 「大丈夫?疲れてない?」 「さっきからずっと黙り込んじゃって」と皿を翔真に渡す。 「ごめんごめん、大丈夫!」 苦笑いして熱々のカチャトーラを口にした。 それを見て、美和も少し安心したように料理を口に運んだ。 「そう言えばさ、翔真は何で今の会社に就職したの?」 「何でって…」 「ほら、アシスタントできるくらいなら自分でも料理教室とか出来たじゃない」 「あー…そゆこと…」 残ったビールを飲み干すと、苦笑いして口を開いた。 「俺ね、計量が苦手なの」 「えっ?いつもアシスタントで準備の時にやってるんじゃないの?」 美和は不思議そうに翔真を見る。 「いや、そういうんじゃなくて…。ほら、レシピ考えたりする時って、大さじ1とか小さじ2とか計って書きながら作るんだけど、その作業が苦手」 「あー…分かる気がする」と美和も納得顔になる。 「ちっさい頃から料理してると、『こんなもんかなー』って調味料とか目分量で入れちゃう訳。だいたい勘が働くから美味しくできるんだけど、いざレシピを書き起こそうとすると『あれ?醤油ってどんくらい入れたっけ?』とかなって結局レシピ書けないんだよ」 「あはははっ、翔真らしいね!翔真らしいというか、主婦みたい」 美和があまりにおかしそうに笑うので、「どうせ主婦ですよー」と、今度は翔真が膨れっ面になった。 「もうちょい何か食いたいな。まだ食べれそう?」 「うん、翔真とシェアするなら大丈夫」 真剣な顔でメニューとにらめっこする翔真を、美和はニコニコしながら見ていた。 「じゃぁ、鯛のアクアパッツアとブルスケッタ」 「すみませーん」とウエイターを呼び追加オーダーをする。 「あ、あとモスコミュール。翔真は?」 「ビール!お願いします」 「かしこまりました」 ウエイターが下ってから残っていたパスタを全て取り分けパクつく翔真に、「よく食べるねぇ」と言いながら美和は空いたビールグラスをテーブルの端に寄せた。 「今日昼抜きだったからさ」 「そっかそっか」 「美和は食べるより飲む方だな」 「ふふっ。強くはないけどね」 疲れのせいか、程良く酔がまわり頬が紅潮した美和は、とろんとした目で翔真を見詰めていた。 その美和の表情に息を呑み、夢中で食べていた翔真の手が止まる。 「…ん?どうしたの?」 「いや」 ブンブンと音が鳴りそうな勢いで頭を振り、翔真はあらぬ妄想を振り払った。「明日は仕事、明日は仕事…」とブツブツ唱えながら煩悩を抑え込む。 「もう少ししたらお互い仕事落ち着くでしょ?そしたら旅行でも行こー!」 「旅行…!」 無邪気に話す美和に、ようやく抑え込んだ筈の妄想と煩悩が再び暴れ出す。 今まで何人かと付き合ってきた事はあるが、社会人になってからは美和が初めてだった。これからの事も考えて、大切にしたい人だ。 (旅行…旅行って…!) 「翔真?大丈夫?飲み過ぎた?」 真っ赤になった翔真の顔を心配そうに美和が覗き込んだ。 「だ、大丈夫…」 そう答えながら勢いよく残りの料理を口に運ぶ翔真を、美和は不思議そうに見ていた。
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