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『今日の献立
•白菜とネギと豚肉の中華炒め
•切り干しとトマトのナムル
•小松菜とエリンギの味噌汁』
キュ、とホワイトボードマーカーの蓋をして、和也はレッスンの下準備に入った。
今日は発表会が終わってから初めての授業だ。いつものレッスンだが、和也は心なしかワクワクしていた。
発表会は一般人の参加はなく、あくまで業界関係者やメディア関係者しか参加していなかったのだが、SNSの効果が大きかったのか、翌日以降料理教室や予約の問い合わせが相次ぎ、和也は対応に追われていた。
今時点で予約できる料理教室の枠は全て埋まっており、キャンセル待ちも何人か居る。しかし和也は、1回のレッスンの参加人数を増やす事はしなかった。参加希望の人には申し訳ないが、1人1人丁寧に指導がしたかったため、やはり和也自身8人が受け入れられる限界の人数だったのだ。
今日は発表会前に予約受付したレッスンだった為、新規は1人しか居ない。馴染みの生徒に会えるのも楽しみだった。
今日は翔真も来ない為一人でテキパキと下準備をしていると、あっと言う間にレッスン開始10分前だ。
―ガチャ
「こんばんは…」
「こんばんは」
様子を伺うように入ってきた女性は見たことがない顔だ。恐らく今日唯一の新規の生徒だろう。
「新規の…」
「はい、河合です。宜しくお願いします」
「講師の佐々木です。こちらこそ宜しくお願いします」
和也は安心させるように微笑みかけると、河合もホッとしたような表情になった。
「こちらが今日のレシピです。レッスンの最初にこれを見ながら一通りの流れを話して調理に入ります。荷物はあちらの棚に置いて下さい。手洗いをしてお手持ちのエプロンをつけたら、好きな席に座って下さいね」
「はい」
翔真が居ない時はメインキッチンに立ったまま、口頭での説明になる。一通り話終わった所でドアが開いた。
「こんばんは∼」
「こんばんは」
入ってきたのは中村だ。レシピを受け取るなり、和也に話しかけた。
「先生動画見ましたよ!企業の新商品PRするなんて凄いですね!」
「たまたまご縁があって…」
「あれ、大石さんですよね?」
「あ…はい、そうです」
言っていいものかどうか迷ったが、誤魔化す意味も言葉も見付からず、困ったように笑いながら結局答えてしまった。
「こんばんは∼」
「こんばんは!」
中村はまだ話したそうだったが、次々に生徒がやってきた為大人しく準備に入った。程なくして全員が揃いレッスンが始まる。中村の他に発表会の動画について話しかけてくる生徒は居なかった。
「ではレッスンを始めていきます。今日は白菜とネギと豚肉の中華炒め、切り干しとワカメとトマトのナムル、小松菜とエリンギの味噌汁です。まずメインの中華炒めですが、ポイントは白菜の切り方と豚肉の処理の仕方です。白菜は繊維を断つように切って食感を残します。豚肉は下味をつけたら片栗粉をはたいて…」
話しながら新規の河合に目を向ける。
周りの様子を窺いながら河合自身もメモを必死に取る姿が見られ、ついてこれているようで一安心した。
改めて全体を見ながら話をしていると、改めて自分の居場所はここなんだという事を実感する。
実を言うと、和也は通常レッスンも毎回緊張していた。それはガチガチに固まって動けないようなものではなく、あくまで「程良い」緊張感だ。その緊張感含め、雰囲気、居心地が好きだった。
「それでは調理に入ります」
和也の声で一斉に生徒達が動き出す。
新規の河合の隣には、東が座っていた。東から声をかけ、分担が決まったようだ。ふたり共それぞれ調理に取りかかる。それを見届けてから和也は各テーブルをまわり始めた。
「切り干しはザルで洗うと流れませんよ」
ボウルに切り干しを入れて洗おうとしていた河合に声をかけた。
「はい!ありがとうございます。…先生、切り干しって煮なくても大丈夫なんですか?」
河合は洗いながら気になっていた事を質問した。隣で豚肉の処理をしていた東も気になっていたようで和也を見る。
「はい、きちんと洗えば煮なくても食べられます。食感が良くて甘みもあって、美味しいですよ」
「そうなんですね!食べるのが楽しみです」
「洗えたら軽く絞って、切って下さいね」
「はい!」
和也がニコリと微笑むと、河合は微かにはにかんだ。「先生∼!」と他のテーブルから声が上がる。
「はーい!今行きます。では、この調子で頑張って下さいね。東さんも。分からない事があったら呼んで下さい」
「「はい!」」
そう言って和也は呼ばれたテーブルへ移動した。
(楽しい…)
生徒達にアドバイスしながら、和也は自分自身がレッスンを楽しんでいる事に気がついた。勿論、今までも楽しいと思ってやってきたのだが、何というか、以前より自分に余裕がある。
今まで生徒達一人一人がどんな作業をしているか、フォローは必要か、危なくないかなど注意深く見てきた。しかし今日は、それに加え生徒達の「表情」までしっかり見えるのだ。それも、意図せず自然と目に入ってくる。
「楽しんでるな」「ちょっと大変そうだけど、頑張りたいんだろうな」「思うようにいかなかったのかな」
『行動』にしか注目出来なかったのが、『表情』まで見ることができるようになっただけで、今まで以上にレッスンを楽しいと感じられる余裕を生み出している。これは他ならない、あの発表会の経験あってこそだと和也は思った。
「そろそろ試食にうつりましょうか」
各テーブルの進み具合を確認し、和也は全員に声をかけた。
「いただきます」
全員で合掌し、試食タイムが始まる。
河合は気になっていたナムルに一番に箸をつけた。
「美味しい!」
ビックリしたように和也を見ると、和也は嬉しそうに微笑んだ。
洗った時の水分とトマトから出た水分、調味料のみで戻した切り干しはコリコリとした食感が楽しい。荒く潰したトマトは全体に馴染み、具材兼調味料の役割をしており、切り干しは甘みがよく出ている。更に最後に混ぜた胡麻が風味を良くしていた。
「私も正直、えっ!?って思ったんですけど、美味しくてビックリしました」
東の言葉に、同じようにナムルを口にした生徒達が頷いた。
「先生のレシピって、作りやすくて簡単でいつも助かってます」
「そうそう。結構応用がきくし、意外な食材の食べ合わせとか教えてくれるし」
生徒達の言葉に、和也は照れたように微笑んだ。
「こちらこそ、レシピを活用して下さってありがとうございます」
いくらこちらが伝えても、レシピを使って貰わなければ意味がない。だから、生徒達がレッスンだけでなく自宅でもレシピを活用してくれている事が、和也は素直に嬉しかった。
「えっ、先生にお礼言われちゃった!」
生徒達は驚いたが、皆嬉しそうに笑い合っている。教室全体が、和やかな雰囲気につつまれていた。
(こんな雰囲気の中で、ずっと仕事ができたらいいな…)
和也は目を細め、微笑みながらその様子を見ていた。
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